ベンヤミン・アップル
好奇心を持ち続けて【前編】

<Artist Interview>
ベン
ヤミン・アップル

好奇心を持ち続けて【前編】

text by 本田裕暉
cover photo by David Ruano

ドイツ・レーゲンスブルク生まれのバリトン歌手、ベンヤミン・アップルの名前を知ったのは、2017年リリースのCD『魂の故郷~シューベルト→ブリテン歌曲集』(ソニー・クラシカル、SICC30494)を聴いたときのことだった。ブラームスの歌曲〈月の夜〉WoO21について調べていた筆者は、その過程でこのアルバムに出会い、そこに収められたアップルの柔らかく伸びやかな歌声と、確かな知性を感じさせる誠実かつ丁寧な歌い口に魅了されたのだった。

1982年生まれのアップルは、故郷のレーゲンスブルク大聖堂の少年聖歌隊で歌った後、ミュンヘン音楽・演劇大学とロンドンのギルドホール音楽演劇学校で学んだ。2009年には、オーストリア西部の村シュヴァルツェンベルクでのシューベルティアーデ音楽祭にてディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925~2012)に出会い、その最後の愛弟子として、巨匠が世を去る2週間前までベルリンの自宅でレッスンを受けていたという。

2010年にロンドンに拠点を移したアップルは、2014~16年にBBC「ニュー・ジェネレーション・アーティスト」、2015/16年シーズンにECHO「ライジング・スター」に選出され、また2016年英グラモフォン・アワード「ヤング・アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞するなど、数々の新人賞に輝いた。2018年10月1日にはNHK音楽祭に登場し、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のNHK交響楽団とともにオルフ《カルミナ・ブラーナ》を演奏して日本デビュー。2018年のサントリー「1万人の第九」や、2019年京都・仁和寺での「音舞台」公演にも出演している。その後、2020年9月に予定されていた福岡と兵庫でのリサイタルは新型コロナウイルス禍の影響を受けて公演中止となってしまったが、3年の時を経てついに日本でのリサイタルが実現。2023年11月26日の兵庫公演ではシューベルトの《冬の旅》を、そして28日の東京公演では『魂の故郷』の収録曲を中心とした自伝的プログラムを披露し、さらなる表現の深化を感じさせる繊細かつ自然な歌声で聴衆を魅了した。

今回のインタヴューでは、東京・浜離宮朝日ホールでのリサイタルの印象や、2023年にリリースされた2枚のアルバムの聴きどころ、敬愛するシューベルトの音楽の魅力、そしてアップル自身が最も得意とするジャンルである「リート」にかける想いについて、じっくりと話を聞いた。

Benjamin Appl ©︎Lars Borges

言葉と音楽を自然に伝えたい

――浜離宮朝日ホールでのリサイタルでは、2017年リリースのアルバム『魂の故郷』の収録曲を中心に、最後にグリーグの《6つの歌》op.48を配したプログラムを演奏されましたね。6年ほどの時を経て、改めてこれらの作品と向き合われてみていかがでしたか?

2017年から翌年にかけては、このプログラムで60~70回のコンサートを開いたのですが、その後はしばらく演奏していませんでした。やはり自分自身も変化していますし、方向性も歌う曲も変わってきています。そんな中で再びこのプログラムに取り組むのは、非常に興味深い経験でした。子どものときから数えますと、日本を訪れるのは今回で6度目になるのですが、個人的にもたくさんの想い出がある大切な場所で「ハイマート(Heimat=ドイツ語で「故郷、故国」の意)」という特別なテーマのプログラムをお届けすることができ、大変幸せでした。

――CDを録音されたときと比べて、変化したことなどはありましたか?

具体的にどう変化したか、ということは自分では説明しにくいのですけれども、変わったと思いますね。この『魂の故郷』というアルバムはソニー・クラシカルからのデビュー盤でして、当時は私自身の気持ちもまだまだ若く、「もっと多くの人たちを喜ばせたい」という想いがありました。そして、まだ「自分」を探していた時代でした。これは永遠のテーマかもしれませんが、しかし自らを表現する方法も含めて、前よりは自分のことがよく分かってきたように感じています。

――リサイタルを聴かせていただいて、例えばシューベルト作品における間の使い方や言葉の繊細な描き分けなど、細部の表現がさらに深化しているように感じました。

私もそう思います(笑)。

――アップルさんの演奏を聴くたびに、自然で伸びやかな歌声はもちろんのこと、弱音量域での情報量が非常に多い、減らない点もまた凄いなと感じています。今回のリサイタルでも、一つひとつの「言葉」を丁寧に届けようとされていることが大変よく伝わってきました。リサイタルに臨む際には、どんなことを考えて、何を大切にして演奏されているのですか?

歌曲のリサイタルは、バリトン歌手にとって本当に面白いものだと思っています。一番伝えたいのはやはり「言葉」と「音楽」です。それを自然なかたちで伝えるために、私はリサイタルの冒頭で、お客様に語りかけることにしています。そうすることで、すぐに皆さまとのコネクションを築くことができるのです。お客様も話を聞く中で「あ、ステージに立っているのは同じ人間なんだな」と感じてくださるのですね。そして、その延長線上で歌を自然に届けたいのです。

もちろん、音の響きだけではなく子音や母音も聴いていただきたい。そして言葉が分かる方には、そのテクストが持っている「意味」も聴いていただきたいですね。やはりそれこそが歌曲の醍醐味だと思っています。

歌曲には3つの柱があるのです。まずは「詩」から始まります。詩人は何かしらの人生経験や自然などに触発されて詩を書くわけです。そして、それを読んだ作曲家がそこからインスピレーションを得る。テクストから「音楽」が見えたり聞こえたりしてくるんですね。作曲家はそれを作品、楽譜に乗せます。さらに、演奏家が自らの置かれた自然の環境の中にその詩を見出すこともあります。ですから、私たちがリートを歌うときには「詩人の気持ち」、「作曲家の気持ち」、そして「自分の気持ち」の3点を行ったり来たりすることになるのです。これが非常に面白く、魅力的な部分なんです。もちろん、どこに重点を置くのかというジレンマはありますが、いつもできるだけ自然な方法で解決しようと試みています。決して作り物の「芸術的な歌い方」にならないように――聴衆の皆さまと繋がれるような「自然な歌い方」を目指しています。

こだわりのコンセプト・アルバム

――2023年6月にはアルファ・レーベルからのアルバム第2弾『禁断の果実』(ALPHA912)をリリースされました。これは『魂の故郷』以来のコンセプト・アルバムですね。「現代における禁断の果実とは何か、蛇は今もどこかに潜んでいないか」と問いかける内容の1枚とのことですが、何故こうしたテーマのアルバムを録音することにしたのですか?

ここ数年、ニュースなどを見ている中で特に感じていたことなのですが、やはり西洋諸国においてはダイバーシティ(多様性)を重視する考え方と並んで個人主義が根強く、自分たちの「壁」を広げていこう、ヒエラルキーに対して闘いを挑もうという動きがあります。しかし、世界にはより保守的な価値観を大事にしたり、むしろ逆行している国々もあるわけです。

これは永遠の問いだろうとは思いますが、そもそも何故そういった「壁=制限」というものがあるのでしょうか。また、そうした制限を超えるのはよいことなのでしょうか。確かに「壁」があると、我々の世界も、また一人の人間としても小さくなってしまうからよくないとは思うのですが、では壁を広げることによって本当に幸せになるのでしょうか。それを広げていくだけの価値、限界を超える意味はあるのでしょうか。壁を超えたために後悔することはないのでしょうか――そんなことを考えたのですね。

そのような中で聖書に立ち戻って、アダムとイヴの話や「禁断の果実」について考えてみたところ、そこにはたくさんのレパートリーがあるなと思い至ったのです。そこで私も「壁」を広げるという意味を込めて、マレーネ・ディートリヒが歌ったようなもの、よりジャズ寄りの楽曲なども含めたアルバムを作ることにしました。一人でも多くの方がこのテーマに共感を持って、「自分たちが生きている時代」というものについて考えてくださると嬉しいですね。

――『禁断の果実』にはガーニー、ヴォルフ、ヴァイル、プーランクなどじつに多彩な作品が収められていますが、選曲はどのように進められたのですか?

私はCDやコンサートのプログラムを作るのが大好きなのですが、その選曲作業には何ヶ月も、何年もかかることがあります。はじめにテクスト全体の意味がフィットしていると思われる作品を選んでいくのですが、単にテーマだけを見て曲を選ぶのであれば、それは誰にでもできてしまいます。ですから、私はより深く探究して、文脈を考えながら曲を選んでいきます。まずは3~4時間分の曲を集めて、そこから65分になるよう減らしていくのです。これは本当に難しい作業です。最初に全体の中核となる曲――私が愛してやまない、そしてプログラムに必須だと思われる曲を決めて、次にそれらを繋ぐ曲を選んでいきます。一番大変なのは曲順の決定です。これは私が大切にしていることなのですが、好きな作品をただ並べるのではなくて、それなりの考えや理論が背景にある、と聴き手に伝わる曲順であることが重要だと思っています。今回の場合は聖書の物語がありましたから、全体の構造としてはまだ作りやすかったですね。

――ただ名曲を並べただけのアルバムでないことは拝聴していてよく伝わってきました。シューベルトの〈野ばら〉から〈糸を紡ぐグレートヒェン〉への流れなども鮮やかですね。

そこは工夫したところですね。この2曲を並べると私にとって、また聴き手にとっても普段とは異なった印象を与えることになるのではないかと思ったのです。やはり同じ作品を聴く場合でも、どのような文脈でその曲が演奏されるのか、その曲の前に何が置かれているのかによって、聴いたときの印象は全く違うものになると思います。それがこのアルバムで挑戦したかった部分でして、単にロマンティックな歌曲を並べているだけではないのです。例えば〈野ばら〉は、女性に乱暴をはたらく内容の作品なので、どちらかというと「乱暴的な解釈」をとっているわけですが、その上ですぐ後に〈グレートヒェン〉を持ってきますと、前に聴いた曲のマインドが残っているので、また一味違った聴こえ方になるのではないかと考えたのです。

盟友ジェームズ・ベイリュー

――今回のアルバムも『魂の故郷』やリサイタルと同じく、南アフリカ出身のピアニスト、ジェームズ・ベイリューさんとの共演ですね。

ジェームズとは2011年にリートのコンクールで出会ったのが最初でした。彼は他の歌手のピアニストとして来ていたのですが、そのときに会って意気投合しまして、2012年から一緒に活動しています。ジェームズとの仕事はいつも感動的で、今回のアルバムでも選曲や曲順について彼の意見を聞かせてくれました。

彼は素晴らしい音楽家であり、素晴らしい人間でもあります。歌曲のピアニストは楽器の演奏が上手なだけでは不十分なんです。「信頼感」がとにかく大切です。ステージで歌うときの私は「裸状態」なわけですが、そこで支えてくれるのがピアノで、私が空を飛ぶための翼のような役割を果たしてくれるのです。ですから歌手とピアニストが信頼関係を築くのは本当に重要なことで、リハーサルをこなすのはもちろん、それにとどまらない多くのことを共有しなくてはなりません。お互いを知るために一緒に食事をしたり、美術館に行ったり、政治の話をしたり、家族のことを話したり――そうして徐々に信頼がかたちづくられていくのです。そのようにして築かれた信頼があるからこそ、ステージ上でひらめく様々な発想を、卓球のラリーのようにテンポよくやり取りできるのですね。私には四六時中一緒にいて、全ての食事を共にしても平気な人というのはなかなか居ないのですが、その点ジェームズは貴重な少数派です。彼と過ごす時間はいくらあっても足りないと感じるくらいなんです。

――本当に理想的なパートナーなのですね!

※このインタビューは2023年11月の来日時に行われたものです。

後編へつづく

公演情報

リサイタル『ベンヤミン・アップル 君を愛す』
2026年1月23日(金)19:00
兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホール

ベンヤミン・アップル(バリトン)
務川慧悟(ピアノ)

ベートーヴェン:《アデライーデ》作品46
ベートーヴェン:《君を愛す》WoO.123
シューベルト:《セレナード》D957/4
シューベルト:《魔王》D328 ほか

公演詳細:https://www1.gcenter-hyogo.jp/contents_parts/ConcertDetail.aspx?kid=5053513322&sid=0000000001

札幌交響楽団 第674回定期演奏会
2026年1月31日(土)17:00/2月1日(日)13:00
札幌コンサートホール Kitara

札幌交響楽団 東京公演 2026
2026年2月5日(木)19:00
サントリーホール

エリアス・グランディ(指揮)
ベンヤミン・アップル(バリトン)

武満徹:《ア・ウェイ・ア・ローン II》
マーラー:《さすらう若人の歌》
R. シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》

公演詳細(定期演奏会):https://www.sso.or.jp/concerts/2026/01/-674/
公演詳細(東京公演):https://www.sso.or.jp/concerts/2026/02/tokyo2026/

CD情報

『ベンヤミン・アップルのクリスマス・アルバム』

ジョン・フランシス・ウェイド/デイヴィッド・ウィルコック編:《神の御子は今宵しも(おお、すべての忠実な崇拝者よ)》
メンデルスゾーン:オラトリオ《エリア》作品70より〈そう、たとえ山々が崩れ去り〉
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:《クリスマス・オラトリオ》BWV 248より〈偉大なる主、おお力ある王よ〉〈あなたの飼葉桶のそばに控えております〉
ジョン・ラター:《クリスマスの子守歌》《聖ヨセフのキャロル》
フンパーディンク:歌劇《ヘンゼルとグレーテル》より〈夕べの祈り〉
ペーター・コルネリウス:《東方の三賢者》作品8-3
フランツ・クサヴァー・グルーバー:《きよしこの夜》 ほか

ベンヤミン・アップル(バリトン)
レーゲンスブルク大聖堂少年合唱団(合唱指揮:クリスティアン・ハイス)
イリアス・グラウ(ボーイソプラノ)
ハンス・ベルガー(ツィター)
エーデルトラウト・アップル(ギター)
ヨハンネス・ベルガー(コントラバス)
フローリアン・ヘルガート(指揮、シュタイアー式アコーディオン)ミュンヘン放送管弦楽団

録音:2024年1月19、20日、4月10~12日 レーゲンスブルク ヴォルフガングザール、ミュンヘン バイエルン放送第1スタジオ

ナクソス・ジャパン株式会社
https://ml.naxos.jp/album/ALPHA1079

2024年10月発売のクリスマス・アルバム。アップル自身が少年時代に所属していたレーゲンスブルク大聖堂少年合唱団との共演による《きよしこの夜》をはじめ、クリスマスにまつわる名品が収められている。プレトリウス(1571~1621)からクリストフ・イスラエル(1964~)まで、幅広い年代の作品が集められたこだわりの選曲が光る1枚。

ベンヤミン・アップル Benjamin Appl
ドイツ歌曲史上に燦然と輝くディートリヒ・フィッシャー=ディースカウから寵愛を受けた最後の愛弟子。低音から高音まで魂がこもった印象的な柔らかい響きを持つ歌声は世界の主要コンサートホール・音楽祭で聴衆を魅了し、2014年から次々に新人賞にあたるさまざまな賞を獲得。2017年ソニー・クラシカルと専属契約。2018年にはヤルヴィ指揮NHK交響楽団との共演で日本デビューを果たす。彗星の如く現れた『いま絶対に聴くべき声楽家』である。

マネジメント(クリスタル・アーツ)アーティストページ:https://www.crystalarts.jp/artist/appl/
ベンヤミン・アップル公式ホームページ:https://www.benjaminappl.de

執筆者:本田裕暉
1995年生まれ。青山学院大学大学院文学研究科比較芸術学専攻博士前期課程修了。主な研究対象は19世紀ドイツの音楽史、とくにヨハネス・ブラームス、マックス・ブルッフらの器楽作品。2018年より音楽之友社『レコード芸術』誌に定期的に寄稿。CDライナーノーツ、演奏会プログラム等に多数執筆している。
X(旧Twitter):@H_R_Honda

※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。

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