毛利文香
静けさのなかの熱情【後編】

<Artist Interview>
毛利文香

静けさのなかの熱情 【後編】

text by 八木宏之
cover photo ©Andreas Malkmus

パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクール、モントリオール国際音楽コンクールで次々と入賞を果たし、国際的に高い評価を獲得しているヴァイオリニストの毛利文香。前編では毛利がヴァイオリンを始めた幼少期から、学問との両立を模索した10代までの歩みを語ってもらった。後編では、ドイツのクロンベルクアカデミーでの留学生活や仲間たちと取り組む室内楽への想い、12月のリサイタルについてなど、毛利の今とこれからを掘り下げていく。

©Hisashi Morifuji

世界的巨匠たちとの学び

――慶應義塾大学在学中に、ドイツのクロンベルクアカデミーに留学され、ミハエラ・マルティンさんに師事されています。クロンベルクアカデミーを留学先に選ばれたのはなぜですか?

ミハエラ・マルティン先生のお名前は以前より原田幸一郎先生からお聞きしていて、初めてマルティン先生にレッスンを受けたのは、2012年の夏に韓国のフェスティバルに参加したときでした。そのときのレッスンは1時間に満たない短いものでしたが、その後参加したフランスのカザルス音楽祭で複数回のレッスンを受けることができ、マルティン先生のもとで勉強したいと思うようになりました。マルティン先生はご自身が教えているケルン音楽大学とクロンベルクアカデミーの受験を薦めてくださったのですが、ケルンの入試とエリザベート王妃国際音楽コンクールの入賞者コンサートが重なってしまい、結局クロンベルクだけを受験して、無事合格することができました。

――クロンベルクアカデミーは一般的な音楽大学、音楽院とは少し様子が異なる学校だと伺いました。

私が入試を受けた2015年当時は、今以上にクロンベルクアカデミーのカリキュラムに関する情報が少なくて……。また実際に訪れてみるとクロンベルクの街は本当に小さく、都会のケルンの方が充実した学生生活を送れるのではないか、などと不安になったりもしました。
入学してすぐに、2年に1度のクロンベルクアカデミーのフェスティバルが開催されました。そこでは学生、卒業生、教員がさまざまな演奏会を行うのですが、どの演奏会も刺激的なものばかりで、そのときになってようやく凄いところに来てしまったなあと実感が湧いてきました。とりわけタベア・ツィンマーマンさんのリサイタルはヴィオラのイメージを変えるほどの衝撃的なものでしたね。
クロンベルクアカデミーでは学生同士がルームシェアをすることが多く、皆が家族のような温かい雰囲気です。どんな留学生活になるのかあまりイメージができないままクロンベルクに来てしまって、最初は不安も大きかったのですが、周りの人に助けられながら、スムーズに留学生活を始めることができました。

クロンベルクの街並み 撮影:毛利文香

――クロンベルクアカデミーはツィンマーマンさんをはじめ世界トップクラスの演奏家たちが教員を務めていますね。

入学してから2年後に再びフェスティバルが開催された際、ツィンマーマンさんとモーツァルトの協奏交響曲を共演する機会をいただけたことは本当に貴重な経験でした。彼女は当時、ボンのベートーヴェン・ハウスのディレクターを務めていたので、クロンベルクアカデミーの学生を何人か招いてくださり、ベートーヴェン・ハウスで一緒にシューベルトの八重奏曲を演奏したこともありました。
ツィンマーマンさんもそうですが、クロンベルクアカデミーではヴァイオリン以外の楽器の先生たちから受ける刺激がとても多く、それがこの学校の特徴です。ピアニストのキリル・ゲルシュタインさんのレッスンでは、自分の演奏を聴いてもらうだけでなく、ベートーヴェンのソナタを一緒に演奏してくださったので、そこから得られた学びは本当に大きかったですね。呼吸や間はこうして一緒に演奏するからこそ学ぶことができるものだと思います。

タベア・ツィンマーマンと共演する毛利文香

――ほかにもクロンベルクアカデミーで印象に残ったレッスンはありましたか?

クロンベルクアカデミーでは、先ほどお話したフェスティバルの行われない年に『チェンバー・ミュージック・コネクト・ザ・ワールド』というプロジェクトが開催されます。私は2016年に参加しましたが、ヴァイオリニストのクリスティアン・テツラフさんやチェリストのスティーヴン・イッサーリスさんと一緒に取り組んだ室内楽は素晴らしい体験でした。イッサーリスさんは演奏中のアイコンタクトをとても大切にされる方でしたね。テツラフさんはユニークなアイデアをたくさん持っている方で、ハイドンのカルテットでは曲の途中でファーストとセカンドを入れ替わらない? と提案され、演奏しながら立ち上がってパートを交換したりしました。これは弾く側にもお客さんにも発見のある、面白いアイデアでした。
ヴァイオリニストのギドン・クレーメルさんやピアニストのクリストフ・エッシェンバッハさん、アンドラーシュ・シフさんがレッスンを行う際には、自分が弾く作品の曲目解説を書くというルールがあります。クレーメルさんのクラスは毎回テーマが決められていて、自分以外のレッスンもみんなで聴いて、意見を述べたり、ディスカッションしたりします。エッシェンバッハさんは指揮者でもあるのでコンチェルトのレッスンが多いのですが、ソナタなど室内楽を聴いてもらうと、ピアニストとして顔も見せてくださって、コンチェルトのレッスン以上に細かくアドバイスをくださることもありました。

アンドラーシュ・シフと共演する毛利文香

互いの成長を感じながら取り組む室内楽

――毛利さんはソリストとしての活動だけでなく、トリオ・リズル、エール弦楽四重奏団、ラ・ルーチェ弦楽八重奏団など、室内楽にも積極的に取り組まれています。

トリオ・リズルもエール弦楽四重奏団もラ・ルーチェ弦楽八重奏団も、メンバーが世界のいろいろなところにいる関係でなかなか頻繁には集まれませんが、1年に1度のペースで演奏活動を続けています。
トリオ・リズルは去年正式に結成しました。常設の弦楽三重奏団というのは少し珍しいですが、田原綾子さんも笹沼樹さんも桐朋学園時代から一緒に演奏してきた仲間ですし、この3人で意見を出し合いながら、弦楽三重奏のレパートリーを少しずつ開拓していくのはとても楽しいです。
ラ・ルーチェ弦楽八重奏団は大学1年生のときに、桐朋学園と東京藝大から4人ずつ集まって結成しました。メンバー全員が徳永二男先生の宮崎国際音楽祭のアカデミーで学んだ仲間です。宮崎で先生たちと一緒にメンデルスゾーンの八重奏曲を演奏したことが結成のきっかけになりました。
エールやラ・ルーチェは高校、大学のときに組んだアンサンブルなので、皆で集まって演奏するときに、その人の音楽的、人間的な成長や変化がとてもよくわかるんです。留学してすごく上手くなったなとか、今はいろいろと模索しているときなのかなとか。そうして互いの成長を感じながら演奏できる仲間がいることは、本当に幸せなことだと思っています。

エール弦楽四重奏団の仲間たちと。2015年のカザルス音楽祭のマスタークラスでの1枚。

――12月には日本に帰国されて全国各地でリサイタルを開催されます。こちらのプログラムについても教えてください。

プログラムを考えたとき、まずフランクのヴァイオリン・ソナタをリサイタルの最後に演奏することを決めました。それから、共演するピアニストの原嶋唯さんと以前からベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第10番を演奏したいと話していたこともあって、この作品でリサイタルを始めることにしました。
私はいつかイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの全曲演奏をやりたいなと思っているくらい、イザイの音楽が好きなので、今回も1曲はイザイを弾きたいと思い、無伴奏ソナタの第1番をプログラムに入れました。イザイは素晴らしいヴァイオリニストだったので、彼の作品を弾くと、技術的にも音楽的にもいつもたくさんの学びがあります。無伴奏ソナタの第1番はコロナ禍に入ったころに、マルティン先生に薦められて取り組みました。イザイの6曲ある無伴奏ソナタのなかでは、あまり演奏されない第1番ですが、高度な演奏技術が求められるだけでなく、音楽的にも味わい深い作品です。
あと1曲、フランクのソナタの前に何を弾くのが良いか考えていたところ、ブロッホのヴァイオリン・ソナタ第2番《神秘の詩》に辿りつきました。ブロッホの作品はこれまで弾いたことはなかったのですが、ブロッホはブリュッセル音楽院でイザイに師事していて、プログラムにぴたりとはまる作品だったので、今回取り上げることにしました。
原嶋さんは桐朋学園の同級生で、高校生のときからお互いのことを知っています。原嶋さんは人柄が本当に温かくて、話し合いながら一緒に音楽を作り上げることができる、絶大な信頼を置くピアニストです。今回も一緒に演奏できるのが本当に楽しみです。

©Hisashi Morifuji

リサイタルとレコーディング、新たな挑戦の日々

――来年の夏には毛利さんにとって初となるソロの協奏曲のアルバムがリリースされます。アルバムに収められているのは、18世紀のフランスの作曲家、シャヴァリエ・ド・サン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲です。ルクレールにヴァイオリン、ゴセックに作曲を学んだサン=ジョルジュは、カリブ海にルーツを持つ、当時のパリの音楽界においては人種的マイノリティといえる音楽家でした。

今回のアルバムはナクソス・レーベルからの提案で、私もこのオファーをいただくまでサン=ジョルジュのことは知りませんでした。今回4曲の協奏曲を録音したのですが、どの作品もモーツァルトの時代のスタイルで書かれています。オリジナルの楽譜が散逸してしまい、現在手に入る楽譜にはアーティキュレーションがほとんど書かれていないので、それを自分で考えて補わなければなりませんでした。また写譜をする過程で起こったと思われる音の間違いもいろいろあったので、オリジナルを尊重しながらそれをどのようにカバーするのかの塩梅が難しかったですね。

――サン=ジョルジュの音楽は、日本ではまだほとんど知られていませんね。

サン=ジョルジュ自身が相当ヴァイオリンを弾ける人だったのか、独奏パートにはかなり高度なテクニックが求められます。モーツァルトの作品と比べると不完全な部分もあるのですが、魅力的な部分もたくさんあって、私も弾いていて、レコーディングであることを忘れてしまうほどでした。サン=ジョルジュの協奏曲は必ず第2楽章にカデンツァがあって、今回の録音のために全て自作しました。日本にいるときはカデンツァを作ることはあまりなかったので、これもとても勉強になりました。

――来年のリリースが今から楽しみです。このアルバムをきっかけに、日本でもサン=ジョルジュのブームが起きるかもしれません。最後に、これからチャレンジしてみたいことがあればぜひ教えてください。

先ほどお話ししたようにイザイの無伴奏ソナタの全曲演奏は挑戦してみたいですね。ベルクのヴァイオリン協奏曲もいつかオーケストラと演奏してみたい作品のひとつです。ドイツにはもう少しいるので、レパートリーをもっと増やしていきたいと思っています。特にコンチェルトは重点的に勉強していきたいです。
あとは、自分で室内楽のフェスティバルを主宰するのも夢のひとつです。クロンベルクアカデミーの友人たちのなかには、すでに自分のフェスティバルを主宰している人もいて、この前もアイルランド人のヴァイオリニストの友人が故郷のコークで開いている音楽祭に参加してきました。こうした友人たちからは多くの刺激を受けていますし、自分も夢を実現できるように頑張りたいです。音楽祭をただ開催するのではなくて、コンセプトを明確にして、地域を盛り上げたり、子どもたちに聴いてもらったり、音楽祭をする意味がちゃんとあるものをじっくり作りたいと思っています。
やはりコンサートで演奏家とお客さんが同じ空気を共有することは、クラシック音楽の魅力を伝えるうえでとても大切です。大きなホールで大人数に聴いていただくのももちろん素晴らしい機会ですが、小さな空間で、近い距離で演奏を聴いていただくことによって得られるものもあると思うので、音楽祭にしても、子供たちへ向けたプログラムにしても、そうした距離感は重視したいと思っています。

 

毛利のこれまでの歩みを振り返ってみると、先を急ぐことなく、そのとき学ぶべきことにじっくりと取り組む、音楽家としての誠実な姿が浮かび上がってきた。毛利が時間をかけて蓄えてきた力は、リサイタルやレコーディングを通してはっきりと示されていくに違いない。毛利が語った夢がひとつひとつかたちになっていくとき、日本のクラシック音楽界には新しい風が吹き込むだろう。FREUDEはこれからも毛利の挑戦をさまざまな角度から取り上げていく。

 

毛利文香 Fumika Mohri
2012年に第8回ソウル国際音楽コンクールにて、日本人として初めて最年少で優勝。2015年に第54回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールにて第2位およびエリザベート王妃国際音楽コンクールにて第6位入賞。2019年にモントリオール国際音楽コンクールにて第3位入賞。これまでに、川崎市アゼリア輝賞、横浜文化賞文化・芸術奨励賞、京都・青山音楽賞新人賞、ホテルオークラ音楽賞を受賞。
ソリストとして、神奈川フィル、東京フィル、東京シティ・フィル、東京交響楽団、群馬交響楽団、大阪交響楽団、韓国交響楽団、ベルギー国立管、クレメラータ・バルティカ、ヨーロッパ室内管など、国内外の主要なオーケストラと共演を重ねるほか、サー・アンドラーシュ・シフ、アブデル・ラーマン・エル=バシャ、タベア・ツィンマーマン、イリヤ・グリンゴルツ、堤剛、今井信子、伊藤恵などの著名なアーティストとの共演も数多い。また、宮崎国際音楽祭、武生国際音楽祭、イタリア・チェルヴォ音楽祭、クロンベルクアカデミー・フェスティバル、ラ・フォル・ジュルネ、シャネル・ピグマリオン・デイズ等に出演。
ヴァイオリンを田尻かをり、水野佐知香、原田幸一郎に師事。桐朋学園大学音楽学部ソリストディプロマコース、及び洗足学園音楽大学アンサンブルアカデミー修了。慶應義塾大学文学部卒業。2015年よりドイツ・クロンベルクアカデミーを経て、現在はケルン音楽大学でミハエラ・マーティンに師事している。
トリオ・リズル(弦楽三重奏)、エール弦楽四重奏団のメンバーとしても活躍している。
https://www.fumikamohri.com
https://www.novellette-arts.com/fumika-mohri

公演情報
毛利文香 ヴァイオリン・リサイタル
2022年12月1日(木)18:30開演
クリエイティブ・スペース赤れんがホールII
公演詳細:https://concert-search.ebravo.jp/concert/164413

2022年12月3日(土)15:00開演
芦屋 アマックホール
公演詳細:https://www.kojimacm.com/digest/221203/221203.html

2022年12月5日(月)19:00開演
トッパンホール
公演詳細:https://www.toppanhall.com/concert/detail/202212051900.html

毛利文香(ヴァイオリン)
原嶋唯(ピアノ)

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第10番 ト長調 Op.96
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 Op.27-1
ブロッホ:ヴァイオリン・ソナタ第2番《神秘の詩》
フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調

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