沼尻竜典×岡田暁生対談
マーラーの交響曲第7番を体験せよ
神奈川フィル東京公演に寄せて【後編】
text by 八木宏之
2024年2月16日に東京オペラシティ コンサートホールで開催される、神奈川フィルハーモニー管弦楽団東京公演へ向けて、同団音楽監督の沼尻竜典と音楽学者の岡田暁生(京都大学人文科学研究所教授)が、プログラムの核となるマーラーの交響曲第7番について解き明かす対談。前編では、第7番で描かれる多様な夜の表情や、マーラーのオーケストレーションについて掘り下げた。後編では、指揮者と音楽学者それぞれの立場から見たマーラーの作曲家像など、第7番を楽しむためのヒントが語られる。
全てはスコアのなかに
沼尻 音楽学の世界では、マーラーはどのように評価されているのですか?
岡田 音楽学者というのは、「苦悩する作曲家」が「偉い」と考える傾向がありますからね、口には出さねど、そうやって評価する(笑)。その意味ではマーラーの評価は高いですよ。それにひきかえシュトラウスは苦悩とか葛藤があまり見えないから、軽視されてるなあ。「哲学」がないように見えちゃうんですよね。
沼尻 私はマーラーのシンフォニーでも、ワーグナーやシュトラウスのオペラでも、全体像やストーリーの流れが見えるような指揮を心がけているので、しばしば聴きやすいと言われるのですが、わかりにくい方がなんだかありがたいように感じられるのかもしれませんね。若い頃は「沼尻の演奏はわかりやすくてけしからん」と評論家の先生に書かれることもありました(笑)。
岡田 音楽学者や評論家というのは、悩んでいる芸術家が好きなんですよ(笑)。「悩んでいるストーリー」がわかりやすく伝わる音楽がいいんです。言い方が悪いかもしれないけど、ワーグナーやマーラーの熱狂的なファンは、「教祖の苦悩と同一化しようとする信者」みたいになる傾向があるからなあ。一方シュトラウスみたいに苦悩が見えない作曲家には信者はほとんどいないかも。
それはともかく、沼尻さんのワーグナーやマーラーは「苦悩色」みたいなものをきれいに消し去って、純粋な構造に還元する方向だから僕は好きなんです。それからワーグナーについていえば、「ドビュッシーら印象派の方角から見たワーグナー」みたいに聴こえる。
沼尻 時代を逆から見るのは好きですね。チャイコフスキーもショスタコーヴィチの視点から眺めてみると、新しい発見があったりします。
岡田 ピエール・ブーレーズの振るワーグナーやマーラーの洗練とも通じるなあ。あれは新ウィーン楽派から見たワーグナーやマーラーだった。
沼尻 ブーレーズは若い頃の私にとって憧れの指揮者でした。年齢を重ねたからか、最近はブーレーズの録音を聴く機会も減りましたが、ベルリン留学中は、ブーレーズがベルリン・フィルに客演する度に、リハーサルをかぶりつきで見学していました。
岡田 スコアをレントゲンで撮ったかのようなブーレーズのクリアなサウンドは本当に素晴らしかった。沼尻さんのワーグナーやマーラーも、複雑な対位法がものすごくクリアに聴こえる。
沼尻 ブーレーズは本当に耳が良い人で、まるで毛細血管まで見えるかのような演奏でしたね。いまは世界中のオーケストラがとても上手くなっているので、あの頃より音楽のディティールは自然と聴こえてくるとは思いますけどね。
岡田 ヨーロッパでワーグナーの上演に接すると、思わず居眠りをしてしまうことがあるのですが、沼尻さんのワーグナーには不思議と長さを感じないんだなあ。多少「ヨイショ」をして言えば(笑)、私がワーグナーで眠らなかったのは沼尻さんだけ。ワーグナーやマーラーの音楽にへばりついている脂質とか灰汁とかをきれいにすくいとって調理してくれているかんじがする。最良の意味でとても聴きやすい。
沼尻 マーラーの場合、指揮者の振り方も含めて、なにをすべきか全てスコアに書いてあります。マーラーは優れた指揮者だったので、オーケストラの心理をとてもよく理解していました。例えば「急ぐな」という指示がよくあるのですが、オーケストラはただ急がないようにするだけでなく、ほとんどわからないくらいテンポを落として演奏することが多いです。もしここに「ゆっくりと」と書いてあったら、テンポはさらに遅くなってしまうでしょう。こうした匙加減が実に上手いのです。
ガチ中華へ行くように
沼尻 マーラーの交響曲のなかでも、第7番はなかなか演奏機会がなく、オーケストラにとっても、お客様にとっても、少し心理的なハードルが高い作品です。私にとっても、第7番を指揮するのは、東京フィルハーモニー交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、京響に続き、今回の神奈川フィルが4回目です。前回の神奈川フィル東京公演(2023年1月20日)ではサン=サーンスの交響曲第3番というエンタテインメント性の高い作品を演奏したので、今回はそれとは真反対なマーラーの交響曲第7番を選びました。
岡田 未知の世界を体験する面白さがこの交響曲にはありますね。なんてことないパッセージでも、見慣れているようでいてどこか異様で、奇怪な悪夢のようであり、シュールレアリズムみたいです。「シュールレアリストとしてのマーラー」の極地。美術でいえば『ダリとシュールレアリズム展』を見に行くときの好奇心で、マーラーの音楽を聴きに行って欲しいです。第7番の普通ではあり得ないような楽器の使い方を実演で聴くだけでも、価値があると思いますよ。
沼尻 冒頭のテノールホルンの響きから、すぐに異世界へと誘われます。第2楽章のコルレーニョのパッセージは骸骨を想起させますし、第3楽章はもうホーンテッドマンションです。第4楽章が売春宿だとすれば、第5楽章はLED照明で異様に明るい深夜の田舎のコンビニでしょうか。これほど多様な世界をひとつの音楽のなかで一度に体験できる、とてもお得な作品が第7番なのです。
岡田 深夜の田舎のコンビニとは言い得て妙(笑)! 腑に落ちる! シュールレアリズム的だ!
沼尻 これだけ異様なことをやっていても、それが破壊ではないところが、マーラーの凄さです。新しいことをやっているけれども、一応調性もあって、ソナタ形式で書かれていて、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。ルールに則って書いていながら、あれだけ新しいことを実現できるところが、マーラーの技術なのでしょう。
中華料理でも、慣れ親しんだ町中華だけでなく、より本格的なガチ中華のお店へ行く人が増えています。マーラーの交響曲でも同じように、第1番や第5番などの人気曲だけでなく、ある意味、マーラーの本性が露わになっている第7番の魅力を、この機会に多くの方に知っていただけたら嬉しいです。
公演情報
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
For Future 巡回シリーズ 東京公演2024年2月16日(金)19:00開演
東京オペラシティ コンサートホール沼尻竜典(指揮)
ニュウニュウ(ピアノ)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.16
マーラー:交響曲第7番 ホ短調《夜の歌》公演詳細:https://www.kanaphil.or.jp/concert/2536/
沼尻竜典
神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。ベルリン留学中の1990年、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。以後、ロンドン響、モントリオール響、ベルリン・ドイツ響、ベルリン・コンツェルトハウス管、フランス放送フィル、トゥールーズ・キャピトル管、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響、シドニー響、チャイナ・フィル等、世界各国のオーケストラに客演を重ねる。国内外で数々のポストを歴任。ドイツではリューベック歌劇場音楽総監督を務め、オペラ公演、劇場専属のリューベック・フィルとのコンサートの双方において多くの名演を残した。ケルン歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパー、バーゼル歌劇場、シドニー歌劇場等へも客演。16年間にわたって芸術監督を務めたびわ湖ホールでは、ミヒャエル・ハンペの新演出による《ニーベルングの指環》を含め、バイロイト祝祭劇場で上演されるワーグナー作曲の主要10作品をすべて指揮した。2014年には横浜みなとみらいホールの委嘱でオペラ《竹取物語》を作曲・初演、国内外で再演されている。2017年紫綬褒章受章。岡田暁生
1960年、京都府生まれ。音楽学者、京都大学人文科学研究所教授。大阪大学大学院博士課程単位取得満期退学、1991年までミュンヘン大学およびフライブルク大学に留学。2001年に『オペラの運命』でサントリー学芸賞受賞、2009年に『ピアニストになりたい!』で芸術選奨新人賞、『音楽の聴き方』で吉田秀和賞受賞。十九世紀のオペラおよびピアノ音楽の研究から出発し、近年ではジャズ史にも取り組んでいる。近刊に『モーツァルト』(ちくまプリマ―新書)およびコロナ時代の音楽を論じた『音楽の危機』(中公新書:小林秀雄賞受賞)が話題を呼んだ。ほかに『西洋音楽史-クラシックの黄昏』(中公新書、2005年/韓国版、2009年)、『オペラの運命』(中公新書、2001年、サントリー学芸賞受賞)、『リヒャルト・シュトラウス』(音楽之友社)、『すごいジャズには理由がある』(アルテス)など著作多数。2021年度京都府文化賞を受賞。