沼尻竜典×岡田暁生対談
マーラーの交響曲第7番を体験せよ
神奈川フィル東京公演に寄せて【前編】

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沼尻竜典×岡田暁生対談

マーラーの交響曲第7番を体験せよ

神奈川フィル東京公演に寄せて【前編】

text by 八木宏之

音楽監督沼尻竜典と神奈川フィルハーモニー管弦楽団の2シーズン目の集大成となる演奏会『For Future 巡回シリーズ 東京公演』が、2024年2月16日に東京オペラシティ コンサートホールで開催される。プログラムは中国の名手、ニュウニュウをソリストに迎えたグリーグのピアノ協奏曲と、《夜の歌》の愛称でも知られるマーラーの交響曲第7番。東京公演の翌日には、同じプログラムが横浜みなとみらいホールでの定期演奏会でも披露される。リヒャルト・シュトラウスやショスタコーヴィチの大曲で、次々と名演を成し遂げているこのコンビの好調を東京の音楽ファンに示すのに、マーラーの交響曲のなかでも屈指の難曲として知られる第7番はふさわしい選択だろう。

マーラーが多くを語らなかったことから、未だ謎を残す第7番は、聴き手にとってもガイドが求められる作品だ。今回FREUDEでは、神奈川フィルによるマーラーの交響曲第7番の演奏をより深く楽しむために、その聴きどころに迫る対談を実施した。指揮台に立つ沼尻と熱く語り合うのは、音楽学者の岡田暁生(京都大学人文科学研究所教授)である。びわ湖ホール芸術監督時代の沼尻の指揮に数多く接し、沼尻ファンを公言している岡田が、マエストロから交響曲第7番を楽しむためのヒントを巧みに引き出してくれた。

交響曲第7番で描かれる多様な夜の表情

岡田 沼尻さんがびわ湖ホールの芸術監督を退任されて、関西の音楽ファンは本当に寂しがっています。2023年に聴いた、びわ湖ホールでの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(2023年3月2日、5日、セミ・ステージ形式)も、京都市交響楽団との『サロメ』(2023年7月15日、演奏会形式、京都コンサートホール)も大変な名演でした。京響とのマーラーの交響曲第7番(2023年8月26日、びわ湖ホール)は残念ながら聴くことはできなかったのですが、沼尻さんが指揮したびわ湖ホールでのオペラや、京響とのこれまでの共演はいつも本当に素晴らしく、沼尻さんの指揮でさまざまな作品を聴くことのできる神奈川フィルのお客さんが羨ましいです。

沼尻 そう言っていただけてとても光栄です。今後も関西圏での公演はありますから、ぜひいらしてください。

岡田 今回のテーマはマーラーの交響曲第7番ですが、この作品はマーラーの交響曲のなかでももっともラディカルな作品だと言っていいでしょう。マーラーという人は、本業が指揮者だったからということもあるんでしょう、最後はちゃんと聴衆から拍手をもらう必要性をよく理解していた。どんな聴き手であっても、最後は思わず拍手をしてしまうような、いわばウケを狙いに行くことも出来た。交響曲第2番や第8番などはその典型でしょう。

そこにいくと第7番には、「フィナーレへ向けた感動のストーリー」がまったくありません。私にはそこが面白いんですが。第5番と第7番を比べてみましょうか。どちらもスケルツォを中心としたシンメトリー的な5楽章構成で、最終楽章にはフーガが登場するなど共通点も多い。でも第5番は人気があるのに、第7番はとっつきにくいと思われている。どうしてかと考えれば、恐らく第5番は闇からだんだん明るくなって、終楽章の喜びへ至るというラインが割とはっきり見えるんですよね。しかし第7番では、ずっと闇の中をうごめいていて、そして終楽章でいきなり唐突に明るくなる。それでもこれを「闇から光へ」のストーリーと捉える指揮者もいますが、そうやるとどうもうまくいかない。沼尻さんはこうした一筋縄にはいかないひねくれた作品を、これまでも見事な説得力をもって解釈してこられたと僕は思っているんですが(かつて沼尻さんが京響と演奏したショスタコーヴィチの交響曲第4番も忘れがたい名演でした)、このあたりについていかがでしょうか?

沼尻 交響曲第7番はロ短調に始まりハ長調に終わりますが、「暗から明へ」というベートーヴェン的なストーリーを持った交響曲ではないですね。第1楽章は出だしから不安定です。ソナタ形式の再現部は非常に不気味で、化け物のようなテーマの回帰に安心するどころかむしろ不安が増します。第5楽章もそれまでの楽章を総括した勝利のフィナーレではないと思います。どんどこどんどこしたこのハ長調の最終楽章は、どこかハノンの練習曲を思い起こさせるような。

沼尻竜典

岡田 第1楽章から第4楽章はゾンビの音楽ですよね。幽霊たちのマーチやワルツ、スケルツォ。この4つの楽章は、ベルクの《ヴォツェック》にも近いものを感じます。こうやって第4楽章まで進んで、にっちもさっちもいかなくなったところで、強制終了するのが第5楽章。このフィナーレはまるで発作みたいです。暗いところから急に明るいところに出て、光で目がくらみ、痙攣をおこすようなイメージ。ですから、第5楽章の唐突な明るさは、「悪夢から覚める」という解釈も可能なんじゃないかなと僕は思うんですが。悪夢にうなされ、目が覚めたら、実は夏休みの南アルプスの別荘の朝だったという夢落ち。教会からは金管コラールが聞こえてきて、「さあ。今日は山登りだ」みたいなかんじ。実際、この第5楽章はシュトラウスの《アルプス交響曲》のようでもありますし。

沼尻 たしかに《ヴォツェック》の病んでいる感じは、交響曲第7番にもありますね。

岡田 第2楽章と第4楽章には〈夜曲〉というタイトルがつけられていますけど、やはりこのふたつの楽章が交響曲の核心だと思います。《夜の歌》というニックネームもここから来ています。第2楽章はいわば下級兵士たちの野営の場面。これを聴いていると《ヴォツェック》の同じく野営の場面を思い出さずにはいられません。第4楽章は同じ夜でも、都会の売春宿の夜。ギターとマンドリンが登場するが象徴的です。つまり場末の「流し」の楽器ですね。ギターもマンドリンも通常のオーケストラ曲ではまず使われない。これはとても重要な点です。いわばウィーンの楽友協会ホールに来るような紳士淑女たちが、「まあ、ギターとかマンドリンなんて・・お下品ね」と眉をひそめてみせる、そういう楽器。ウェーベルンの《管弦楽のための5つの小品》にもギターとマンドリンが使われていますが、これもやはりウィーン楽友協会の「外」の世界の音楽ですよね。

沼尻 売春宿の夜ですか(笑)。その発想はなかったですが、おっしゃることはよくわかります。昔の夜は今とは比べ物にならないほど暗かったんですよね。現代社会の光に溢れている夜とは全く次元の異なる暗さのなかで、人々は恐怖を覚えたり、幽霊を感じたりしていたんだと思います。マーラーはそうした深い夜を巧みに描いていますし、ギターやマンドリンを使うことで、夜のまた違った表情、夜の妖しさのようなものも表現しています。普通はあり得ない10度以上の跳躍もしばしば見られますが、これもただならぬ異様さを表しているのでしょう。

岡田 第2楽章のラストなどは、私たちが知らない本当の夜の暗さを感じさせますね。全てが暗闇のなかに消えていく。お化けみたいに。ちなみにマーラーの時代、ウィーンはヨーロッパでも群を抜いて売春宿が多い都市で、性感染症も恐ろしく蔓延していた。ギターやマンドリンの響きは、そういった夜の世界からの誘惑を暗示しているように聴こえます。ここにアコーディオンが入れば「夜の蝶の世界」は完璧でしょう(笑)。いずれにせよ、当時の聴衆はギターやマンドリンが入って来ただけで、反射的にこういう連想をしたと思います。

沼尻竜典と神奈川フィルハーモニー管弦楽団

マーラーのオーケストレーションが目指すもの

岡田 ところでこの交響曲の「季節」ってなんでしょうね? 第2楽章が夜の野営であるとするなら、やはり冬の曲ではないでしょう。野営をするには寒すぎますから。僕は第1楽章の冒頭からすでに、なんだか生暖かい夏の夜の空気を感じるんですが?

沼尻 第1楽章冒頭のテノールホルンのソロもなんだか浮遊しているようです。岡田さんが生暖かい響きとおっしゃいましたけど、客席には間接音が届くテノールホルンだからこそ、独特のぬるさが出せるんだと思います。ほかの楽器ではこの雰囲気は作れないですよね。テノールホルンはオーケストラのオーソドックスな編成には含まれない楽器ですから、その響きが聴き手に違和感を抱かせ、我々を異世界へと誘うのです。

岡田 第1楽章はマーラーの交響曲のなかでももっとも調性が不安定ですね。しかもシェーンベルクをはじめとする新ウィーン楽派の調性を細かく分解していく無調とは違う不安定さ。第7番の第1楽章冒頭も、調性があるようでないような、掴みどころがない響きがします。教会旋法ですね。

沼尻 不協和音が解決すべきところで解決せずに、また次の不協和音へ移ってしまうので、調性を感じにくくなっています。

岡田 それからマーラーの楽器法も面白い。先ほど沼尻さんのお話に挙がったテノールホルンは軍楽隊を連想させる。あるいは大太鼓にシンバルをくくりつける手法も、マーラーが好むものですが、これまた軍楽隊ですね。わざと安っぽい響きを狙っている。

沼尻 あのシンバルは、道頓堀の食い倒れ太郎やおもちゃのお猿のような、チープで情けない響きが求められているんです。シンバルを担当する人と大太鼓を担当する人を分けてしまったら、まったく別の響きになってしまうでしょう。

岡田 ゴージャス・サウンドという点ではシュトラウスのオーケストレーションの方がはるかにゴージャスですね。楽譜通りに演奏すれば必ずゴージャスに響くという書き方。マーラーとシュトラウスは同時代人ですが、オーケストレーションのやり方はまったく違う。

沼尻 マーラーの音楽は対位法的なので、シュトラウスの作品と比べるとアンサンブルは難しいと思います。

岡田 対位法的な書法とも関係しますが、オーケストラがまろやかに響くことに重きをおいていないんですよね。ちなみにオットー・クレンペラーの回想によると、マーラーの交響曲第6番のリハーサルに顔を出したシュトラウスが、マーラーのオーケストレーションのある箇所について「ここはよくない」と口にし、マーラーはそのことをひどく気にしていたということです。劣等感があったみたいですね。

沼尻 シュトラウスの流麗なオーケストレーションは、あまりに上手く書けすぎていて、鼻につく人もいると思います。才能を自覚しているシュトラウスのナルシシズムは、音楽にも見え隠れしていますし、それを苦手だという人の気持ちはわからなくもありません。

マーラーが音楽にどういった意味づけをしているのかは、ときに曖昧でわかりにくいところがあります。記号的ではあるけれども、明確ではない。それに対して、シュトラウスの書くパッセージやモチーフはよりはっきりとした意味を持っていて、それらはほかの作品とも共通しているので、音楽のストーリーを理解しやすいですね。

岡田暁生 京都大学人文科学研究所教授

後編へつづく

公演情報

神奈川フィルハーモニー管弦楽団
For Future 巡回シリーズ 東京公演

2024年2月16日(金)19:00開演
東京オペラシティ コンサートホール

沼尻竜典(指揮)
ニュウニュウ(ピアノ)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.16
マーラー:交響曲第7番 ホ短調《夜の歌》

公演詳細:https://www.kanaphil.or.jp/concert/2536/

沼尻竜典
神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。ベルリン留学中の1990年、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。以後、ロンドン響、モントリオール響、ベルリン・ドイツ響、ベルリン・コンツェルトハウス管、フランス放送フィル、トゥールーズ・キャピトル管、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響、シドニー響、チャイナ・フィル等、世界各国のオーケストラに客演を重ねる。国内外で数々のポストを歴任。ドイツではリューベック歌劇場音楽総監督を務め、オペラ公演、劇場専属のリューベック・フィルとのコンサートの双方において多くの名演を残した。ケルン歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパー、バーゼル歌劇場、シドニー歌劇場等へも客演。16年間にわたって芸術監督を務めたびわ湖ホールでは、ミヒャエル・ハンペの新演出による《ニーベルングの指環》を含め、バイロイト祝祭劇場で上演されるワーグナー作曲の主要10作品をすべて指揮した。2014年には横浜みなとみらいホールの委嘱でオペラ《竹取物語》を作曲・初演、国内外で再演されている。2017年紫綬褒章受章。

岡田暁生
1960年、京都府生まれ。音楽学者、京都大学人文科学研究所教授。大阪大学大学院博士課程単位取得満期退学、1991年までミュンヘン大学およびフライブルク大学に留学。2001年に『オペラの運命』でサントリー学芸賞受賞、2009年に『ピアニストになりたい!』で芸術選奨新人賞、『音楽の聴き方』で吉田秀和賞受賞。十九世紀のオペラおよびピアノ音楽の研究から出発し、近年ではジャズ史にも取り組んでいる。近刊に『モーツァルト』(ちくまプリマ―新書)およびコロナ時代の音楽を論じた『音楽の危機』(中公新書:小林秀雄賞受賞)が話題を呼んだ。ほかに『西洋音楽史-クラシックの黄昏』(中公新書、2005年/韓国版、2009年)、『オペラの運命』(中公新書、2001年、サントリー学芸賞受賞)、『リヒャルト・シュトラウス』(音楽之友社)、『すごいジャズには理由がある』(アルテス)など著作多数。2021年度京都府文化賞を受賞。

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