菊池洋子
バッハ:ゴルトベルク変奏曲
私は私の人生の記憶を綴る

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菊池洋子

バッハ:ゴルトベルク変奏曲

私は私の人生の記憶を綴る

text by 八木宏之
cover photo by Marco Borggreve

ピアニスト、菊池洋子がアルバム『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』をリリースし、それを記念したリサイタルを全国各地で開催する。菊池は2002年にモーツァルト国際コンクールで日本人初優勝を果たして以来、モーツァルトをレパートリーの中心に据えて活動を展開してきた。モダンピアノだけでなく、フォルテピアノによるモーツァルト演奏でも高い評価を獲得している。

菊池の演奏のなによりの魅力はモーツァルト弾きらしい透明感に満ちた美音と、深く内省的な音楽づくりである。つい先日、菊池のリサイタルへ出かけ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番《熱情》やシューベルトの《即興曲集》などを聴いたが、音楽の奥へ奥へと向かっていくその演奏に私はすぐに引き込まれた。ベートーヴェンもシューベルトも表面的な華やかさとは無縁の演奏で、とりわけ《熱情》ソナタでは、菊池の作り出す緊張と静寂が音楽に無限の広がりを与えていた。

こうした菊池の音楽性を考えれば、J.S. バッハの《ゴルトベルク変奏曲》は彼女にこそふさわしい作品だと思えてくる。菊池が今このタイミングで、満を持して《ゴルトベルク変奏曲》をレコーディングした理由を明らかにするべく、菊池がウィーンから帰国したタイミングでインタビューを行った。

シフに教わった《ゴルトベルク変奏曲》の真価

――日本を代表するモーツァルト弾きとして知られている菊池さんですが、バッハの作品は菊池さんにとってどのような存在だったのでしょうか?

《インヴェンション》《シンフォニア》《平均律クラヴィーア曲集》から《フランス組曲》や《イギリス組曲》まで、バッハの作品はピアノを始めたときから勉強してきましたが、学生時代はバッハに苦手意識があり、取り組まなければならないレパートリーだから練習していたところもあったと思います。学校の試験やコンクールの課題曲としてバッハの作品を弾くことはありましたが、演奏会のプログラムで自分から取り上げることはありませんでした。
そうした私のバッハ観に変化があったのは、高校を卒業してイタリアに留学してからです。ボローニャでアンドラーシュ・シフの弾く《ゴルトベルク変奏曲》を聴いて、大きな衝撃を受けました。シフの演奏によって、初めて作品の全体像がはっきりと見えたんです。そのときは、1時間20分が一瞬に感じられました。あまりに感動して、終演後に楽屋まで行き、「今日ようやくこの作品の真価を理解することができました」とシフに伝えました。「《ゴルトベルク変奏曲》は子供のときから何十年にもわたって弾き続けてきた作品だから、今日こうしてあなたに作品の姿を示すことができて嬉しい」と、シフが話してくれたのを覚えています。その言葉を聞いて、《ゴルトベルク変奏曲》は長い時間をかけて、覚悟を持って取り組むべき作品なのだと知りました。

――シフの演奏によってバッハの魅力を知り、《ゴルトベルク変奏曲》に取り組まれるようになったのですね。

シフの演奏会のあと、《ゴルトベルク変奏曲》を練習して、レッスンにも持っていくようになりました。イタリア留学中に2度、この作品を演奏会で弾こうとチャレンジしたのですが、そのときはまだお客さんの前で弾くまでには至りませんでした。それでも《ゴルトベルク変奏曲》をいつかお客さんに聴いていただきたい、シフのように《ゴルトベルク変奏曲》を自分の大切なレパートリーにして、この作品とともに人生を歩んでいきたいとずっと思い続けてきました。
けれども、1時間20分にも及ぶ長大な作品なので、なかなか集中して向き合う時間が取れませんでした。《ゴルトベルク変奏曲》は、目の前のリサイタルやコンチェルトを準備しながら片手間に取り組める作品ではありません。そうした忙しい日々を一変させたのがコロナ禍でした。突然スケジュールがぽっかり空いてしまった今こそ、《ゴルトベルク変奏曲》に向き合うべきときだと思い、半年間、この作品だけを弾くことに決めました。

――自宅でひとり黙々と《ゴルトベルク変奏曲》に向き合われたのですね。

幸いなことに、コロナ禍で外に出ることができないときにも、私には演奏を聴いてくれる人がいました。イタリアで室内楽のフェスティバルを主催している友人に、《ゴルトベルク変奏曲》に取り組んでいると話すと、「モチベーションを保つためには聴き手が必要だから、ぜひその日の成果をオンラインで聴かせて欲しい」と言ってくれたんです。それから毎日、日本時間の夜7時に、イタリアに住む友人へ向けて小さなオンライン発表会を行うようになりました。このアイデアのおかげで、私は半年間、気持ちを切らすことなく、1日も欠かさず練習を続けることができました。聴いてくれる人に少しでも楽しんでもらいたいと考えながら、バリエーションのひとつひとつに取り組んでいきました。毎日発表会を続けて、ようやく全曲を通して聴いてもらったのが、2022年10月のことでした。

――コロナ禍に改めて《ゴルトベルク変奏曲》に取り組まれて、バッハの音楽の捉え方に変化はありましたか?

コロナ禍に入って、自宅で《ゴルトベルク変奏曲》を最初に弾いてみたとき、これは人間の一生を表すような作品だということに気づきました。弾いていると日々の日記を綴っているような気持ちになったり、これまで思い出すこともなかった昔の記憶が蘇ってきたりしたんです。〈アリア〉で始まった作品が〈アリア〉で終わるとき、ひとつの人生が終わって、また新たな人生が始まるような希望の光を感じました。この感覚は、誰かの演奏を聴いているときには抱くことがなかったもので、自分で弾いてみて初めてそのように思いました。これまでに多くの巨匠たちが《ゴルトベルク変奏曲》をレコーディングしていますが、私は私の人生の記憶を綴るという気持ちで、この作品を演奏しています。

――《ゴルトベルク変奏曲》の初版譜には「心の慰め」という言葉が記されています。この作品には人の心に作用するなにか特別な力があるのでしょうか?

あの困難な時期に、バッハの音楽は私の希望となり、心の支えとなりました。それは癒しであるとともに、祈りでもありました。《ゴルトベルク変奏曲》がなければコロナ禍を乗り越えることはできなかったかもしれません。
コロナ禍のあいだ、私は毎朝2時間の散歩をしていたのですが、歩きながらいろいろな演奏家の《ゴルトベルク変奏曲》を聴いていました。そして散歩から帰ると、ピアノに向かって私の《ゴルトベルク変奏曲》を弾き始めるのが日課でした。

Yoko Kikuchi ©Marco Borggreve

コンセプトは「繰り返し聴く《ゴルトベルク変奏曲》」

――散歩中に聴いた《ゴルトベルク変奏曲》のなかで、特にお気に入りの演奏はありましたか?

シフの演奏はもちろんお気に入りですが、ダニエル・バレンボイムの弾く《ゴルトベルク変奏曲》にも感銘を受けました。私にとってシフはピアニストであり、バレンボイムは音楽家なんです。バレンボイムの演奏は、いつも音楽がはっきりとしていて、作品が目に見えます。バレンボイムはピアノを弾いているときにも、あるフレーズは弦楽器、またあるフレーズは管楽器といった具合にオーケストラの響きを感じさせてくれるんです。それに比べると、シフの《ゴルトベルク変奏曲》はとてもピアニスティックな演奏ですね。
そのほかにも、ワンダ・ランドフスカの《ゴルトベルク変奏曲》はよく聴きました。私はランドフスカのモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏が大好きなのですが、《ゴルトベルク変奏曲》でも、彼女の演奏にはたくさんの学びがありました。

――バレンボイムのピアノ演奏はとてもシンフォニックで、バッハでも、ベートーヴェンでも、シューベルトでも、そのスケールの大きさにはいつも驚かされます。《ゴルトベルク変奏曲》はグレン・グールドの代名詞でもありますが、グールドの演奏はお好きですか?

グールドの《ゴルトベルク変奏曲》は、彼が20代の頃のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音が好きですね。テンポが速く、いきいきとしていて、今の私にはこれがお気に入りです。でも、年齢を重ねたら、晩年のステレオ録音に惹かれるようになるかもしれません。
クラシック音楽にそれほど馴染みがなくとも、グールドの《ゴルトベルク変奏曲》は知っているという人がいるのは凄いことだと思います。それだけグールドのイメージが強い作品と言えますよね。グールドの《ゴルトベルク変奏曲》は、まさしくグールド節で、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》ではなく、グールドの《ゴルトベルク変奏曲》のようです。グールドのリズム感とタッチ、そして音の粒立ちは本当に独特で、聴くのは楽しいですが、今の私にとってはあまり参考になっていないかもしれません。

――《ゴルトベルク変奏曲》をセッション録音する際、グールドをはじめ多くのピアニストが、各変奏間の自然なつながりに苦心しています。菊池さんは今回どのようにレコーディングを進められたのでしょうか?

私もそれぞれの変奏のつながりには、とてもこだわりました。第1変奏から第12変奏を続けてレコーディングしたあと、変奏ごとに録音を重ねていきました。全てを録り終えたあと、2回全曲を通してレコーディングもしています。通して弾くと、やはり演奏会のライヴ録音のような自然な流れが生まれますね。
とはいえ、《ゴルトベルク変奏曲》をコンサートホールで聴くのと、自宅で聴くのとでは、感じ方、心地よさも変わってきますから、今回は自宅でリラックスして楽しんでいただけるように、変奏間の「間」を演奏会で弾くときよりも少し長めにとっています

――菊池さんの《ゴルトベルク変奏曲》を聴かせていただいて、なにより感じたのは、徹底した誠実さでした。ありとあらゆる録音を聴くことができ、無数の解釈に自由に触れることができる今日では、演奏にさまざまな仕掛けを施して、「新しさ」を追求したくなることもあるかと思います。しかし、菊池さんはそうしたことには目もくれず、ひたすらにバッハの書いた音の素顔を聴き手に示してくれました。そのストイックなまでの誠実さは、菊池さんが尊敬するシフを思い起こさせます。

スイスのルツェルンでシフのマスタークラスを受講した際に、彼が「わざとらしい、キッチュなものにならないように、品格のある良い趣味の演奏を心がけなさい」と話していたのを覚えています。
私も、《ゴルトベルク変奏曲》のストーリーを、いかにそのままのかたちで聴き手に届けるか、ということをなにより大切にしながらレコーディングに臨みました。演奏会では、即興的に装飾を入れたり、ライヴならではの遊びを取り入れたりすることもありますが、CDで聴いていただく場合、そうした仕掛けが、最初は新鮮で面白いと思えても、何度も聴いていくうちに耳障りなものになってしまうこともあるでしょう。ですから、今回のレコーディングでは、できる限りシンプルに、濃い味付けは避けて、テンポも速くなり過ぎないように、バッハの音楽を絶えず尊重して演奏しました。決して単調なものにはならないよう、楽譜の繰り返しでは、2回とも同じように弾くのではなく、息づかいやフレージングで変化をつけて、繰り返しだと感じさせないように意識しました。
これらのコンセプトは、あくまでCDで繰り返し聴いていただくためのものなので、ライヴではまた少し変化があるかもしれません。

Yoko Kikuchi ©Marco Borggreve

毎年弾き続けていきたい

――今回《ゴルトベルク変奏曲》をレコーディングするにあたり、チェンバロのレッスンも受けられたそうですね。

私はモーツァルトの作品を、フォルテピアノで弾いてきた経験から、作曲家が生きた時代の楽器に触れることの大切さを感じていました。《ゴルトベルク変奏曲》も、バッハの時代の鍵盤楽器であるチェンバロで勉強する必要があると考え、チェンバロ奏者の曽根麻矢子さんに月に1回レッスンをしていただいています。
曽根さんのレッスンは、目から鱗の体験ばかりです。私たちピアニストは、ついペダルに頼りがちですが、ペダルがないチェンバロでは、指だけでレガートを作り、歌わなくてはなりません。チェンバロはダイナミクスをつけることもできないので、その分ハーモニーの美しさを存分に味わいながら演奏します。こうしたことは、チェンバロを弾いてみないとわからなかったことですし、《ゴルトベルク変奏曲》以外のバッハの作品、バロック時代の作品を演奏するうえでもとても大切なことだと思います。

――第一線で活躍するピアニストになられてからも、真摯に学び続けていらっしゃるのですね。

つい先日も、ウィーンでエリーザベト・レオンスカヤさんのレッスンを3年ぶりに受けてきました。レッスンではシューベルトの《即興曲集》を見ていただきましたが、レオンスカヤさんはハーモニーをとにかく大切にされる方なので、ハーモニーからシューベルトにふさわしい色が出てくるまで、左手、右手、両手と同じ箇所を丁寧に指導してくださいました。ハーモニーを重視する点は、曽根さんのチェンバロのレッスンにも通じるところがあるかもしれません。いつも穏やかで、飾らないレオンスカヤさんは私にとって憧れの存在で、彼女に演奏を聴いていただけることが大きなモチベーションになっています。
パウル・バドゥラ=スコダさんにも亡くなる前の2年間、レッスンをしていただきました。パドゥラ=スコダさんはモーツァルトの研究者として名高い方だったので、彼の楽譜に記された膨大なメモや書き込みを見ているだけでも勉強になりました。
レオンスカヤさんには演奏家の視点で、パドゥラ=スコダさんには研究者の視点でレッスンをしていただき、そのどちらもが、私にとってかけがえのない財産となっています。私は学ぶという点において、フレキシブルで柔軟なタイプなので、これからも尊敬するピアニストの方には自分の演奏を聴いていただき学んでいきたいですね。

――アルバムの発売を記念して、東京、兵庫、和歌山で《ゴルトベルク変奏曲》のリサイタルも開催されます。《ゴルトベルク変奏曲》は「ムズカシイ」というイメージを抱いている人もいるかと思いますが、この作品をコンサートホールで楽しむためのヒントを教えてください。

《ゴルトベルク変奏曲》は確かに長大な作品ですし、私も初めて聴いたときには、いつ終わるんだろう? と困惑したのを覚えています。クラシック音楽には、事前に準備をしなくても楽しめる作品と、作品について知らないと取っ付きにくいものがありますが、《ゴルトベルク変奏曲》は後者にあたりますよね。少しだけでも作品について知っていただいてから演奏会にお越しくださると、演奏をより楽しむことができると思います。
《ゴルトベルク変奏曲》は人の一生のような曲だと先ほどお話ししましたが、お客さんのひとりひとりが自らの人生に想いを馳せながら、最初のアリアから最後のアリアまで、耳を傾けていただけたら嬉しいです。
《ゴルトベルク変奏曲》は一度その魅力に気づくと、どんどん引き込まれていく作品でもあります。弾くたびに、聴くたびに新しい発見がありますし、だからこそ、私はこの作品をシフのように毎年、演奏会で弾き続けていきたいと思っています。自分自身が変化するなかで、《ゴルトベルク変奏曲》の演奏も一歩ずつアップデートしていけたら良いですね。

――最後に、菊池さんの今後のプロジェクトについて聞かせてください。

次はバッハのチェンバロ協奏曲に取り組みたいと思っています。コロナ禍に、《ゴルトベルク変奏曲》と併せて聴いていたのが、シフの演奏するバッハのコンチェルトでした。バッハのコンチェルトを毎日繰り返し聴いていると、希望を感じて、不思議と明るい気持ちになれたんです。まだ弾いたことがない作品ですが、ぜひチャレンジしてみたいと思っています。
また今年の9月から、3年をかけて、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を山下一史さんと大阪交響楽団とともにライヴ録音します。ベートーヴェン自身がカデンツァを残しているヴァイオリン協奏曲のピアノ版も演奏できるのが、とても楽しみです。この演奏会のタイミングで、古今東西の子守歌29曲を集めたアルバム『子守歌ファンタジー』も発売しますので、ぜひ楽しみにしていてください。

新譜情報

『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』

菊池洋子(ピアノ)

J.S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988

録音:2022年6月1日〜3日 昌賢学園まえばしホール(前橋市民文化会館)
avex classics
2023年7月12日発売
定価:3,300円(税込)
AVCL-84146

新譜詳細:https://avex.jp/classics/catalogue/detail.php?cd=CKIKU&id=1019827

公演情報

2023年7月29日(土)14:00開演
LURUホール(和歌山公演、配信あり)

2023年7月30日(日)14:00開演
兵庫県立芸術文化センター神戸女学院ホール(兵庫公演)

2023年8月4日(金)19:00開演
サントリーホール ブルーローズ(東京公演)

菊池洋子(ピアノ)

J.S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988

公演詳細:https://yokokikuchipf.com/schedule/

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