倉本聰作品初のオペラ化
日本オペラ協会『ニングル』世界初演へ向けて
その全貌を作曲家、渡辺俊幸が語る

PR

倉本聰作品初のオペラ化

日本オペラ協会『ニングル』世界初演へ向けて

その全貌を作曲家、渡辺俊幸が語る

text by 東端哲也

『ニングル』という作品が持つ現代性

北海道で1984年に脚本家と俳優のための養成所「富良野塾」(※2010年に25期生をもって閉塾、現在は卒塾生たちによる「富良野GROUP」が活動を継承)を興した人気シナリオライターの倉本聰は、自然と共生しながら生活するなかで、渇水(※開拓期以来の湧き水が途絶える事態)を体験して大地への畏怖を覚え、人間が生きていくうえで欠かせない森の存在と真剣に向き合うようになった。そしてその想いを先住民族アイヌの伝説に登場する森の小さな住人”ニングル”に仮託して、雑誌『諸君!』にセミ・ドキュメンタリー記事を連載(1985年12月に単行本化)。まだ今ほど「森林破壊」が取り沙汰されていなかった時代に、この問題にいち早く警鐘を鳴らして注目を集めた。この連載記事はのちにラジオ・ドラマなどを経て、富良野塾3作目の芝居『ニングル』として舞台化され、1994年に初演された。以来、全国各地で何度となく上演を繰り返して演劇ファンを魅了しており、倉本聰の代表作のひとつになっている。

倉本聰

 そんな名作がこの度、日本オペラ協会によってオペラ化され、新たな一歩を踏み出す。倉本の作品がオペラ化されるのは、今回の《ニングル》が初めてのことだ。作曲を担当するのは、18歳でフォークグループ「赤い鳥」にドラム、キーボード担当として加入し音楽活動を開始してから50年あまり、テレビ・映画の劇伴制作や編曲、音楽プロデュース、指揮など様々な分野で活躍を続けている渡辺俊幸。現在、2024年2月のめぐろパーシモンホールでの世界初演に向けて入念な準備を進めている音楽界の重鎮に話を聞いた。

渡辺俊幸

近年では、金沢が生んだ仏教思想家の鈴木大拙とその親友で哲学者の西田幾多郎、ふたりの友情を軸としたオペラ《禅~ZEN~》(2022年初演)で高い評価を得たのも記憶に新しい渡辺。オペラ2作目となる《ニングル》への期待も高まっている。

「日本オペラ協会から、オリジナルの新作を制作したいので作曲をお願いできないかと依頼されました。日本オペラ協会会員でもあるバリトン歌手の江原啓之さんからの推薦もあっての事です。まずはどんな作品にしようかと日本オペラ協会総監督の郡愛子先生と江原さんと私の3人であれこれ考えを巡らせました。新作オペラの上演はリスクも高く、やるからには何としてもヒットさせたい。それには題材選びがとても重要です。単純に皆さんがよくご存じのお話、例えば『竹取物語』とか『源氏物語』をオペラ化するという手もありますが、最終的には倉本先生の『ニングル』がいいんじゃないかとの結論に至ったのです。それには、ドラマ『北の国から』などを世に送り出してきた脚本家という先生の抜群の知名度もありますが、いちばんの理由は『ニングル』という作品が持つ現代性でした。昨今アメリカ各地で起きている森林火災や2023年の日本の記録的な猛暑、11月や12月の異常な夏日など、今や地球温暖化のような環境問題はとても身近な話題です。世界規模で気候がおかしくなっているのは誰の目にも明らかで、現代人の生き方や自然との関わり方に原因があるのではないかとみんなも思っているわけですよね。倉本先生は30年も前にそのテーマを演劇でとりあげて人々に問いかけていた。でも、今こそそれをもっとやるべきじゃないのかと考えたのです。

私は倉本先生が手掛けられた2005年放送のフジテレビのドラマ『優しい時間』の音楽を担当したり、さだまさしさんという共通の友人もいたりして、先生とは長い付き合いです。今回のオペラ《ニングル》で台本(脚本)を担当するのは富良野塾で塾生と一緒に学んだ経験もある吉田雄生さん(※姉の吉田紀子も『Dr.コトー診療所』などで知られる脚本家で富良野塾2期生)で、吉田さんが先生を説得してくれました。結果、我々ふたりが作曲と脚本を務めるのであるなら、という条件でオペラ化のOKをいただくことができました」(渡辺俊幸、以下同)

吉田雄生

2023年8月22日には富良野演劇工場(北海道富良野市)でプレイベント『倉本聰〜今、ニングルを語る』も開催され、【第1部】のスペシャルトークショーには倉本と渡辺、吉田に加えて、演出担当の岩田達宗や”ニングルの長”役で出演する江原も登壇。【第2部】では“才三”役の海道弘昭(テノール)と“かつら”役の佐藤美枝子(ソプラノ)がピアノ演奏でそれぞれのアリアを初披露し会場を沸かせ、その模様はネットでもライヴ配信された。

「トークショーでも発言されていたように、倉本先生はオペラやミュージカルをほとんど観ない方です。でも音楽に対する関心は非常に高い脚本家で、作品には音楽が欠かせないし、ト書きには具体的な曲名までしっかりと明記されている。今回のオペラ化に関して、先生からひとつだけリクエストがあったのですが、それは“木太鼓”を劇中にとり入れてもらいたいというものでした。本当はそういう名前の楽器は存在しなくて、舞台『ニングル』の公演で塾生が実際に木(※流木の中から目ぼしいものをさがして、響きのための穴をあけたもの)を叩いて生の音を出して合奏したものをそう呼んでいるのですが、それを使って欲しいというのが先生の希望でした。ただオーケストラの場合はピットに入ることのできる人数に限りがあるし、スペース的にも余裕がない。また音響的にも難しかった。それでも、音楽に強い”こだわり”をお持ちの先生の意向をできるだけ汲み取りたいと思い、ティンパニに加えて奏者を増やして、木太鼓の代わりに締太鼓を採用することで何とか解決するつもりです」

岩田達宗

金がなければ暮らしていけない
だが、森がなければ生きていけない

オペラ《ニングル》のプロットは、富良野塾や富良野GROUPによって過去に上演された演劇版の流れに従って進行する。その下敷きになっているのは前述したように、塾生たちの暮らしの拠り所であった湧き水が突如として涸れてしまった事件である。水というものが如何に大切なものか思い知らされた倉本は、塾地とその一帯を襲った渇水の原因が、上流の森の何年にもわたる皆伐にあるのではないかと疑い、その調査のために森の奥へと分け入るようになって自然に対する見方を変えていったという。そうした過程から生まれたのが本作なのだ。倉本はこの作品について次のような言葉を残している。

「金がなければ暮らしていけない。だが、森がなければ生きていけない。この芝居は、そのふたつの現実の間で苦悩するふたりの若者の相克のドラマである」(倉本聰)

簡単にオペラ《ニングル》のあらすじもご紹介しよう。

物語の舞台は北海道富良野岳の山裾に拡がる原生林に囲まれた開拓者の村。村の若者たちは「森を伐採して農地が広がれば、もっと生活が豊かになる」と信じて計画を進めていた。ある日、勇太(ユタ)は親友の才三、姪で口がきけないスカンポと共に訪れた森で、体長15センチくらいの小さな人間、ニングルたちに遭遇する。「森を伐るな、伐ったら村は滅びる」と彼らに警告するニングルの長。その言葉に衝撃を受けた才三はそれ以来、たびたびスカンポと共に森を訪れるようになり、ニングルの声に耳を傾け始める。農地開発を推進する勇太と、それに反対して伐採を拒否する才三。ふたりは完全に対立してしまった。やがて開発が始まりその数年後、ニングルが予言した通り村に危機が訪れる。大洪水が起こって作物が流され、その後には渇水が村を襲った。人々は井戸掘り屋を雇うが水はなかなか出ない。一方、才三はスカンポと共にニングルの教えてくれたやり方で水の出る場所を探し当てた。しかしそれを主張しても信じる者は誰もいない。伐採に協力しない、そんな才三の態度に業を煮やす勇太。とうとうふたりは口論から激しく殴り合うケンカになり、それを才三の妻で、勇太にとっては妹であるミクリが止める。勇太はチェーンソーを才三に押し付けて「山へ行って木を伐ってこい。これ以上、お前の女房を泣かせるな!」と言い放つ。そして才三はひとり山へ向かうのだった……

レチタティーヴォを疎かにしてはいけない

この物語にどんな音楽が重ねられるのか、渡辺が注目すべきポイントを語ってくれた。

「最初の本格的なオペラ体験が、ボストン音楽院留学時代にタングルウッド音楽祭で観た《トスカ》なので、今でもオペラ作曲家としてはプッチーニを敬愛しています。芸術的で格調高い作風でありながら、大衆の心を掴むメロディの書ける天才。歌の持つ魅力をよく知っていて、美しいフレーズを何回も登場させて聴かせるテクニックが素晴らしい。〈誰も寝てはならぬ〉の旋律は、まるでヒット曲みたいに耳に残りますよね。私も《ニングル》でそれを目指したいので、ここぞという場面では台本担当の吉田さんにお願いして、印象的な旋律がくり返しになるようにテキストを工夫してもらいました。勇太の歌う場面が数ではいちばん多いのですが、各キャストそれぞれに聴かせどころを用意しています。

特に見せ場となるのは、第1幕の終わりです。8月のプレイベントでテノールの海道弘昭さんに歌っていただいた才三のアリアが出てくる場面です。勇太と殴り合った後で、ミクリに“お願いだから、山に行って”と懇願され、妻をもうこれ以上、村で孤立させるのはしのびないという想いから、本当はやりたくないけれども、ニングルに人間の身勝手さを深く詫びながら森の木に手をかけ、自ら伐った木の下敷きになって命を絶ってしまう。この場面は凄く心血を注いだ箇所で、自分でも作曲しながら涙が溢れてきました。

その後、第2幕の冒頭で才三の妻のミクリが夫を失った悲しみを切々と歌うところも感動的なシーンです。ほかにも、喋れない設定のスカンポに言葉ではないが音程を持った発声で歌わせたり、スカンポの母親ですでに亡くなっているかつらが、天界から皆を見守るようにして歌う、こちらもプレイベントでソプラノの佐藤美枝子さんに披露していただいた神々しいアリアなど聴きどころはたくさんあります。かつらと勇太の父親である民吉(たみきち)にニングルの長か、長よりももっと上の存在である神(カムイ)のようなものが憑依して、息子に向かって語りかける、第2幕後半のクライマックスにも期待していただきたいですね」

佐藤美枝子

インタビューでは、本作を作曲するうえで、オペラにあまり詳しくない人、まだ全幕を通して生演奏でオペラを体験したことがない人にどうアプローチするのかについても話が及んだ。

「これは前作の《禅~ZEN~》の時から自分に課している基本方針なのですが、劇中のあらゆる部分を音楽的に魅力あるものにするように努めました。例えばオペラでは、感情を表現する場である華やかなアリアに対して、レチタティーヴォと呼ばれる語りや状況説明を目的とした、どちらかと言うと地味な歌唱も物語の進行上不可欠なのですが、その部分が冗漫になると観客を飽きさせ、作品そのものを退屈でつまらなくしてしまう恐れがあります。初心者の方に最後まで楽しんでいただくためにも、決してレチタティーヴォを疎かにしてはいけないのです。また演劇版では、倉本先生が“最後まで姿を見せないで観客の想像に任ねる”という究極の表現方法に辿り着いた、神秘的な存在であるニングルを、今回、音楽的にどう表現するかも課題でした。なお全体を通しては、アイヌの民族音楽をモティーフとしては用いていないのですが、第1幕第1場で民吉が登場するシーンの冒頭の音楽については、地元に伝わる伝承的な民謡の音階を意識して作曲しました」

出演者たちの歌稽古は、オーケストレーションが完成する前からすでに始まっている。

「歌手の方が早めに自分の歌うパートを練習できるように、ピアノ・スケッチができた段階で先に楽譜を渡して、それからじっくりオーケストレーションにとりかかるのが一般的なオペラ制作の流れだと思います。まだ自分の作業で忙しくて歌稽古に顔を出せていないのですが、先日、指揮者の田中祐子さんと話す機会があって、とても有意義な時間を過ごすことができました。今回、ほとんどの役がダブルキャストですので出演する歌手の数も多く、それぞれに声質や個性も異なり、実際にオーケストラの演奏と合わせたときにはテンポや強弱など、さまざまな調整が必要になってくるでしょう。あとはもう彼女の解釈を信頼して全てを委ねようと思っていますし、最高の舞台になると確信しています。演出の岩田達宗さんもいろんなアイデアを出してくれて、特に森の木の表現など、観客をあっと驚かせるようなものに仕上がりそうです。スタッフも全員がこの作品にのめり込んでエネルギーを注いでくださっていますし、期待は膨らむばかりです。おそらく、いちばん厳しい観客のひとりである倉本先生にも、オペラ《ニングル》を楽しんでいただけるのではないでしょうか」

2月10日はめぐろパーシモンホールに集って、日本オペラの新たな傑作が生まれる瞬間を心に刻みたい。

田中祐子

公演情報

日本オペラ協会公演
日本オペラシリーズNo.86
《ニングル》新作初演

2024年2月10日(土)14:00
2024年2月11日(日)14:00
2024年2月12日(月)14:00
めぐろパーシモンホール 大ホール
全2幕 字幕付き日本語上演

原作:倉本聰
作曲:渡辺俊幸
オペラ脚本:吉田雄生
指揮:田中祐子
演出:岩田達宗

【出演】
勇太:須藤慎吾(2/10&12)/村松恒矢(2/11)
才三:海道弘昭(2/10&12)/渡辺康(2/11)
ミクリ:別府美沙子(2/10&12)/相樂和子(2/11)
スカンポ:中桐かなえ(2/10&12)/井上華那(2/11)
光介:杉尾真吾(2/10&12)/和下田大典(2/11)
信次:黄木透(2/10&12)/勝又康介(2/11)
民吉:久保田真澄(2/10&12)/泉良平(2/11)
かつら:佐藤美枝子(2/10&12)/光岡暁恵(2/11)
ニングルの長:江原啓之(2/10&12)/山田大智(2/11)
かや:丸尾有香(2/10&12)/長島由佳(2/11)

合唱:日本オペラ協会合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

【公演詳細】
https://www.jof.or.jp/performance/2402-ninguru

最新情報をチェックしよう!