沼尻竜典×加藤浩子対談
ヴェルディの《レクイエム》、その真価を見つめ直す
神奈川フィル第400回定期演奏会に寄せて【後編】

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沼尻竜典×加藤浩子対談

ヴェルディの《レクイエム》、その真価を見つめ直す

神奈川フィル第400回定期演奏会に寄せて【後編】

text by 八木宏之

神奈川フィルハーモニー管弦楽団の記念すべき第400回定期演奏会へ向けて、公演で演奏されるヴェルディの《レクイエム》を徹底的に掘り下げる沼尻竜典(神奈川フィル音楽監督)と加藤浩子(音楽評論家)の対談企画。前編では、この演奏会でヴェルディの《レクイエム》を取り上げる意義や、出演者の音楽的な魅力が大いに語られた。後編では、これまで誤解されてきたヴェルディの《レクイエム》の本質を改めて見つめ直していく。

静けさと壮大さが同居している

――ヴェルディの《レクイエム》は、イタリアの文豪、アレッサンドロ・マンゾーニを追悼するために作曲されましたが、宗教音楽にしてはオペラティック過ぎると指摘されることもあります。この作品は、教会のしめやかな祈りにはふさわしくない《レクイエム》なのでしょうか?

加藤 〈怒りの日〉のインパクトがあまりに強いので、やかましいイメージがあるヴェルディの《レクイエム》ですが、実際にはとても繊細な作品です。デュナーミクひとつとっても、pが6つも付いている箇所が出てくるなど、指示が細かく書き込まれていて、静けさと壮大さが同居しているんですよね。ダイナミックで絵画的な描写もありますし、オペラティックな表現はもちろんあるのですが、それはこの作品の一部分に過ぎません。〈怒りの日〉もただうるさいだけでなく、静かな時間もあって、そうしたコントラストが音楽の核になっています。そういう点では、《レクイエム》は、《アイーダ》に近いと言えるかもしれません。

沼尻 《アイーダ》も〈凱旋行進曲〉のイメージから、スペクタクル・オペラだと思われがちですが、実際にスコアを読んでみると、とても繊細な作品だとわかります。冒頭は大歌劇とは思えないほど静かですし、〈凱旋行進曲〉のような観客サービスはごく一部分で、内省的な時間の方がはるかに長いオペラです。

沼尻竜典
加藤浩子

加藤 幕切れも消えていくように終わりますね。ヴェルディのオペラ作品で、ああいう静かな終わり方は《アイーダ》が初めてでした。《レクイエム》は《アイーダ》の3年後の作品ですから、両者には共通した美意識が見られるわけです。《アイーダ》には「死」への憧れが顕著で、それはその前のオペラである《ドン・カルロ》もそうですが、このような「死」への憧れが《レクイエム》という題材を得て結実したとも感じます。

また《レクイエム》は、低声を好んだヴェルディにしては、その比重が軽いですよね。それも《アイーダ》に近い要素だと思います。最後の〈リベラ・メ〉も、メゾソプラノが歌うべき音域をソプラノが歌っています。これについては、初演のときに歌ったソプラノ、テレーザ・シュトルツがヴェルディの恋人だったことと関係しているのかもしれませんが。

沼尻 そんなプライヴェートな事情があったのですか。作曲家にとって《レクイエム》の難しいところは、テキストが決まっていて、自由がないところです。《レクイエム》の作曲は、コンクールで課題の詩に曲を付けるのと似ています。歌詞が悪かったとは言い訳できません。フォーレは〈怒りの日〉を抜いてしまいましたが、あれはちょっと反則ですね。

加藤 ヴェルディの《レクイエム》は初演こそ教会で行われましたが、数日後にスカラ座で行われた再演では、歌手たちはドレスを着て歌ったそうです。そうした記録からも、この作品が初演時からコンサート・ピースとして受容されていたことがわかります。とはいえ、ヴェルディの《レクイエム》も宗教曲なのだから、オペラのように歌ってはならないという意見もあるそうです。

沼尻 初演の際、声を張り上げて歌うオペラティックな歌唱は宗教曲にふさわしくないと、ヴェルディは批判されたみたいですが、声を張り上げずに上のCを歌うのは難しいと思います。宗教的な敬意を欠くから、《レクイエム》を暗譜してはならないという考えもあるみたいですよ。そうした意見の是非はともかくとして、《レクイエム》がキリスト教と不可分のジャンルであることは確かです。キリスト教の文化圏で《レクイエム》を指揮すると、指揮者の自分だけがキリスト教徒ではなく、なんとなく居心地の悪さを感じることもあります。かつてニュージーランドのクライストチャーチでモーツァルトの《レクイエム》を指揮したときには、合唱が300人もいて、演奏は大いに盛り上がりましたが、私はどこかアウェイでした。

1874年5月25日に行われたミラノ・スカラ座での《レクイエム》再演を描いた1枚

ヴェルディのエッセンスがぎゅっと凝縮された作品

加藤 《レクイエム》はヴェルディの対位法の技が光る作品でもあります。ヴェルディの対位法書法の集大成と言える作品は最晩年の《ファルスタッフ》ですが、《レクイエム》の〈サンクトゥス〉はそれに通じるような音楽です。

沼尻 〈サンクトゥス〉の二重合唱を聴くと、ヴェルディがアカデミックな作曲技法をしっかりと修めた人だということがよくわかります。プッチーニは鍵盤を弄りながら作曲しているようなところがありますが、ヴェルディはもっと技巧的です。

加藤 ヴェルディは、パレストリーナに代表されるイタリアの対位法をしっかりと勉強していて、そうして学んだことを素直に自作に応用しているのです。ヴェルディはとても真面目な努力家でしたから。また二重合唱は、ヴェネツィア楽派以来のイタリアの伝統なので、ワーグナーの影響がイタリアにも押し寄せていた1870年代に、象徴的にそれを用いたと考えることもできるかもしれません。

沼尻 二重合唱は演奏するのがとても大変なんですよ。パートごとの人数が半分に減ってしまいますから、バランスコントロールには細心の注意が必要です。

加藤 以前テノール歌手のロベルト・アラーニャにインタビューした際、「ヴェルディの作品ではどの声域にも輝かしさが必要であり、その輝かしさはイタリアの愛国心と結びついている」という言葉が印象的でした。イタリア的な作曲家がイタリア的な作家の追悼のために書いた《レクイエム》には、そうした愛国的な輝かしさが少なからず必要ですね。沼尻さんの《レクイエム》の原体験はどんなものなのでしょう?

沼尻 私が初めてヴェルディの《レクイエム》の実演に接したのは、まだ学生だった頃に立ち会った、小澤征爾さんと新日本フィルハーモニー交響楽団の映像収録でした。合唱団は皆黒い服を着ていて、その映像は数年後、昭和天皇崩御の際にテレビ放映されました。いわば「Xデー」のための撮りだめだったのですが、この演奏は本当に素晴らしくて、大きな衝撃を受けました。後にも先にも、あんなにカッコいい〈怒りの日〉はないだろうと思います。加藤さんは《レクイエム》をたくさん聴いてこられたのではないですか?

加藤 私はリッカルド・ムーティの指揮するヴェルディの《レクイエム》が強く印象に残っていますが、沼尻さんほどの衝撃的な体験はまだしていないかもしれません。テオドール・クルレンツィスとムジカ・エテルナの《レクイエム》も大変面白かったのですが、「イタリア的」というのには程遠いし、ちょっとイレギュラーだったかなと。だからこそ、今回の神奈川フィルの演奏をとても楽しみにしているんです。ヴェルディの名曲中の名曲を、指揮者、オーケストラ、ソリスト、合唱、どれをとっても旬のアーティストたちの演奏で聴けるのは本当に貴重な機会です。

沼尻 ヴェルディのオペラを数曲聴くのに相当する密度と充実が1曲で味わえる点で、《レクイエム》はお得な作品ですよね。ヴェルディのエッセンスがぎゅっと凝縮されていて、今風に言うと「タイパ、コスパともに優れている」ことにもなりますので、皆様ぜひ聴きにいらしてください。

《レクイエム》初演の際に描かれたマンゾーニとヴェルディの肖像画。

公演情報

神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会第400回

2024年11月16日(土)14:00開演
横浜みなとみらいホール

沼尻竜典(指揮)
田崎尚美(ソプラノ)
中島郁子(メゾソプラノ)
宮里直樹(テノール)
平野和(バス)
神奈川ハーモニック・クワイア(合唱)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ヴェルディ:《レクイエム》

公演詳細:https://www.kanaphil.or.jp/concert/2947/

沼尻竜典
神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。ベルリン留学中の1990年、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。以後、ロンドン響、モントリオール響、ベルリン・ドイツ響、ベルリン・コンツェルトハウス管、フランス放送フィル、トゥールーズ・キャピトル管、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響、シドニー響、チャイナ・フィル等、世界各国のオーケストラに客演を重ねる。国内外で数々のポストを歴任。ドイツではリューベック歌劇場音楽総監督を務め、オペラ公演、劇場専属のリューベック・フィルとのコンサートの双方において多くの名演を残した。ケルン歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパー、バーゼル歌劇場、シドニー歌劇場等へも客演。16年間にわたって芸術監督を務めたびわ湖ホールでは、ミヒャエル・ハンペの新演出による《ニーベルングの指環》を含め、バイロイト祝祭劇場で上演されるワーグナー作曲の主要10作品をすべて指揮した。2014年には横浜みなとみらいホールの委嘱でオペラ《竹取物語》を作曲・初演、国内外で再演されている。2017年紫綬褒章受章。

加藤浩子
東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン講演会も多数。また欧米の劇場や作曲家ゆかりの地をめぐるツアーの企画同行も行い、バッハゆかりの地を巡る「バッハへの旅」は20年を超えるロングセラー。著書に『今夜はオペラ!』『ようこそオペラ』『バッハへの旅』『バッハ』『黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ』『ヴェルディ』『オペラでわかるヨーロッパ史』『音楽で楽しむ名画』『オペラで楽しむヨーロッパ史』など。最新刊は『16人16曲でわかる オペラの歴史』(平凡社新書)。

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