沼尻竜典×加藤浩子対談
ヴェルディの《レクイエム》、その真価を見つめ直す
神奈川フィル第400回定期演奏会に寄せて【前編】

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沼尻竜典×加藤浩子対談

ヴェルディの《レクイエム》、その真価を見つめ直す

神奈川フィル第400回定期演奏会に寄せて【前編】

text by 八木宏之

1970年10月7日にスタートした神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会は、2024年11月16日の公演で400回の節目を迎える。54年の歳月を積み重ねてきた神奈川フィルの歴史と伝統を総括する第400回定期演奏会のプログラムには、ヴェルディの大作《レクイエム》が選ばれた。

モーツァルトとフォーレの《レクイエム》と並び、「三大レクイエム」のひとつに数えられるヴェルディの《レクイエム》は、初演時から「華麗すぎるレクイエム」として激しい論争を巻き起こした問題作でもある。11月の公演を前に、賞賛されると同時に誤解されることも多いヴェルディの《レクイエム》の真価を明らかにすべく、神奈川フィル音楽監督の沼尻竜典とヴェルディのスペシャリストとして知られる音楽評論家の加藤浩子による対談を実施した。加藤は沼尻がリューベック歌劇場の音楽総監督を務めていた時期に、現地でヴェルディの《アッティラ》を鑑賞するなど、沼尻のヴェルディ演奏に長く接してきた人物である。節目を祝う記念演奏会に《レクイエム》を演奏する理由に始まり、作品論から出演者の魅力に至るまで、幅広い議論が展開された。まずは前編をお読みいただこう。

《レクイエム》をいま演奏するのは、とても自然なこと

――神奈川フィルハーモニー管弦楽団の記念すべき第400回定期演奏会で、ヴェルディの《レクイエム》を選んだのはなぜなのでしょう?華やかな節目の演奏会で、あえて《レクイエム》を演奏する理由はどんなところにあるのでしょうか?

沼尻竜典 第400回定期演奏会でなにを演奏すべきかディスカッションするなかで、なにより重視した点は、音楽的に充実した内容を持つ作品を取り上げるということでした。ソリストや合唱も加わる大編成の作品のなかで、ヴェルディの《レクイエム》はもっともふさわしい選択でした。というのも、この選曲をしたのはまだコロナ禍が続いていて、ロシアによるウクライナ侵攻も始まった時期だったからです。理不尽に多くの命が失われていく時世に対して、なにかしらのアクションを起こすことが重要だと考えました。私の大学時代の指揮科の先輩も新型コロナウイルスによって突然この世を去りましたし、400回の記念の演奏会ではありますが、死者を悼む《レクイエム》をいま演奏するのは、とても自然なことだと思えたのです。マーラーの交響曲第2番《復活》も候補にあがりましたが、《復活》で合唱が登場するのは最後の十数分だけということもあり、最終的に、声楽が全編にわたり活躍するヴェルディの《レクイエム》に決まりました。

加藤浩子 ヴェルディの《レクイエム》は以前から沼尻さんのレパートリーだったのですか?

沼尻 私が最後にヴェルディの《レクイエム》を演奏したのは、何十年も前のことです。新星日本交響楽団の指揮者をしていた時代で、その当時はヴェルディのオペラを全く指揮したことがありませんでしたが、その後、6、7作品を指揮していますので、その経験を踏まえて、改めてヴェルディの《レクイエム》に取り組んだら、作品へのアプローチも、そこから見えてくる景色も違ってくるのではないかと思ったんです。

コロナ禍で外国人の指揮者が来日出来なくなった時期、その代役のオファーをいただくことが幾度もあったのですが、プログラムはすでに決まっていることも多く、若い頃に指揮してから、長い間取り上げてこなかった作品と改めて向き合う機会が増えたんです。例えばシャルル・デュトワさんの代役として指揮したサン=サーンスの交響曲第3番《オルガン付き》は、本当に久しぶりに取り組んだ作品でした。《オルガン付き》のようなエンタテインメント性の高い作品は自分には向かないと敬遠していたところがあったのですが、年齢を重ねてから再度演奏してみると、とても良い結果を得られ、それ以来自分のレパートリーとして取り上げるようになりました。ヴェルディの《レクイエム》も同様に、今の自分だからこそできる演奏があるのではないかと思っています。

沼尻竜典
加藤浩子

加藤 《レクイエム》の要となる合唱は、神奈川ハーモニック・クワイアの皆さんですね。

沼尻 神奈川ハーモニック・クワイアは、神奈川フィルが合唱を伴う作品を取り上げる際に共演するプロの合唱団です。合唱付きの作品は、経済的な理由などから、選抜されたアマチュアのメンバーによる合唱団と共演するケースも多いですが、神奈川フィルはプロの合唱団と演奏します。メンバーは普段オペラ上演の第一線で活躍している優秀な歌手ばかりです。神奈川フィルにも以前は神奈川フィル合唱団という専属のアマチュア合唱団があって、神奈川フィルと20年にわたり演奏を続けてきましたが、コロナ禍の影響で活動が大幅に制限されてしまい、20233月をもって解散となりました。神奈川フィル合唱団の解散後、2022年にプロの歌手たちによる合唱団を組織して、2023年の第九公演から神奈川ハーモニック・クワイアの名称で活動しています。

加藤 沼尻さんはびわ湖ホールの芸術監督時代にも、びわ湖ホール声楽アンサンブルで大きな成果を挙げていましたから、神奈川フィルでも同じようにプロの合唱団を重視したのでしょうか?

沼尻 びわ湖ホール声楽アンサンブルは、プロの歌手を目指す若者を育成する目的がありましたが、神奈川ハーモニック・クワイアはすでにプロとして活躍している歌手が参加しているので、びわ湖ホール声楽アンサンブルのような教育的側面はありません。今回のヴェルディの《レクイエム》は、結成間もない神奈川ハーモニック・クワイアの名前を多くの人に知ってもらえる絶好の機会にもなりそうです。《レクイエム》のような合唱付き作品を演奏する際、神奈川フィルは選び抜かれたメンバーによるプロの合唱団と演奏するということが、今後オーケストラにとっても大きな売りになると思います。

神奈川ハーモニック・クワイア

沼尻組の名歌手たち

加藤 神奈川フィルはシンフォニーのレパートリーを中心に演奏するオーケストラですが、沼尻さんが音楽監督に就任してからは、『Dramatic Series』と題する演奏会形式のオペラ上演にも取り組んでいますね。

沼尻 神奈川フィルは『Dramatic Series』を始める前にも、『首都オペラ』やびわ湖ホールとの提携公演『県民ホール オペラ シリーズ』でオペラに取り組んできました。『県民ホール オペラ シリーズ』では私が指揮を担当し、神奈川フィルとの関係が深まるきっかけとなりました。このときのオーケストラとの共同作業が、その後の音楽監督就任に繋がったと思います。ヴェルディ作品では《椿姫》と《オテロ》を上演しています。《アイーダ》もオーケストラの練習まで進んでいましたが、こちらは東日本大震災によって残念ながら中止となってしまいました。

加藤 《椿姫》は演出に賛否両論ありましたが、音楽面は本当に素晴らしい上演だったのを覚えています。今後『Dramatic Series』で再び《椿姫》を取り上げる可能性もあるのでしょうか?

沼尻 正直に言うと、ヴェルディの初期作品である《椿姫》をシンフォニー・オーケストラが主催する演奏会で取り上げようとはあまり思わないです。オーケストラはブンパッ、ブンパッと伴奏が多く、リヒャルト・シュトラウスのように、歌とオーケストラが対等に渡り合うオーケストレーションとは違いますからね。《オテロ》では、オーケストラの重要性が《椿姫》より飛躍的に増していて、しばしば先頭に立ってドラマを引っ張っていきますから、オーケストラにとっても演奏会形式で上演する意義があると言えるでしょう。歌手の歌う旋律が、必ずしももっとも重要な要素ではないところは、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を思い起こさせます。《オテロ》は声楽とオーケストラが完全に絡み合って一体化しているので、メロディカルな《椿姫》よりも玄人向きの作品です。

加藤 確かに《椿姫》のオーケストレーションはとてもシンプルですね。《椿姫》はベルカントの伝統を継承した、歌中心の音楽劇のひとつの頂点だったと思います。ただ、シンプルに見えるなかにも音の一つひとつ、言葉の一つひとつに意味があると思うんです。それをどこまで読み取れるかが、いわゆるベルカントのイタリア・オペラの解釈の醍醐味ではないでしょうか。

先日、リッカルド・ムーティが、やはり初期の作品でベルカント的な《アッティラ》を指揮し、そのゲネプロを見る機会があり、スコアを持参したのですが、ムーティが振るとスコアから音符が立ち上がってきて音楽の雄弁さが伝わり、彼の「目」を共有しているようで衝撃を受けました。ベルカントのイタリア・オペラのオーケストラも、解釈次第で雄弁になり得るのだと実感しました。

一方《オテロ》はオーケストラが細かく語りますし、調性も曖昧なところが見られるなど、ドイツ・オペラの方向性を取り入れていることは明らかです。ただワーグナーからの影響という点になると、その後のプッチーニの方が遥かに強いと思います。

神奈川フィルハーモニー管弦楽団を指揮する沼尻竜典。
『Dramatic Series』より《サロメ》での1枚(2023年6月24日、横浜みなとみらいホール)。

沼尻 先ほど《椿姫》のオーケストラ・パートは伴奏ばかりと言いましたが、そこにイタリア・オペラの真髄が隠されていることも事実です。マリエッラ・デヴィーアとベッリーニの《ノルマ》を演奏したとき、シンプルな伴奏のなかに驚くほど深い世界が広がっていることを彼女に教えられました。イタリアで指揮している人は、日常的にこんな体験をできるのかと羨ましく思いましたよ。

加藤 オペラにおいて、指揮者が名歌手から学ぶということもやはりあるのですね。今回はソリストも魅力的な歌手ばかりですよね。田崎尚美さんは日本のドラマティック・ソプラノの筆頭格ですし、メゾソプラノの中島郁子さんもイタリア・オペラ、ドイツ・オペラの両方で高く評価されています。平野和さんもよく響く声を持つ名バスです。宮里直樹さんは最近色々なところで名前を見るようになった若きスター・テノール。沼尻さんの歌手の声に対する感覚は、日本人の指揮者のなかで抜きん出ていると思います。素晴らしいキャスティングです。びわ湖ホールの舞台で活躍してきた歌手たちが、神奈川フィルでも引き続き、沼尻さんのもとに集っていますね。

沼尻 私はオペラのキャストを考えるときには、声の質だけでなく、本人の持つキャラクターも重視しています。声が出るだけなら、歌える人はたくさんいますが、はまる役というのは、本人のキャラクターも関わってきますからね。今回のソリスト4人は皆、私のイチオシの歌い手ですが、とりわけ女声のふたりはびわ湖ホール時代から共演を重ねている、付き合いの長い歌手です。田崎さんはびわ湖ホールで《さまよえるオランダ人》のカヴァーに入ってもらって以来の付き合いです。あの日本人離れした強靭さは、田崎さんのなによりの魅力ですよね。

加藤 田崎さんはびわ湖ホールの舞台でスターになったソプラノですよね。中島さんもまた、びわ湖ホールから羽ばたいた歌手のひとりです。彼女は発声がとても綺麗ですし、中島さんのイタリアものは本当に素晴らしいので、ヴェルディの《レクイエム》も楽しみです。『東京・春・音楽祭』で《仮面舞踏会》のウルリカを歌った際には、ムーティにも誉められていました。

沼尻 中島さんは本来、ヴェルディからレスピーギまで、イタリア語のレパートリーを得意にしているメゾソプラノなのですが、ワーグナーやマーラーなど、ドイツ語のレパートリーをお願いしても、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれます。

加藤 中島さんは《神々の黄昏》のヴァルトラウテの熱演がとても印象に残っています。

沼尻 平野さんはびわ湖ホールの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》で夜警を歌ってくださったのですが、加藤さんがおっしゃるように、本当に美しい響きを持った歌唱でした。宮里さんの最近の活躍には目を見張るものがありますし、ようやく福井敬さんの後継者となり得るテノールが現れたなと大いに期待しています。

田崎尚美
中島郁子
宮里直樹©深谷義宣
平野和©武藤章

後編へつづく

公演情報

神奈川フィルハーモニー管弦楽団
みなとみらいシリーズ定期演奏会第400回

2024年11月16日(土)14:00開演
横浜みなとみらいホール

沼尻竜典(指揮)
田崎尚美(ソプラノ)
中島郁子(メゾソプラノ)
宮里直樹(テノール)
平野和(バス)
神奈川ハーモニック・クワイア(合唱)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団

ヴェルディ:《レクイエム》

公演詳細:https://www.kanaphil.or.jp/concert/2947/

沼尻竜典
神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。ベルリン留学中の1990年、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。以後、ロンドン響、モントリオール響、ベルリン・ドイツ響、ベルリン・コンツェルトハウス管、フランス放送フィル、トゥールーズ・キャピトル管、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響、シドニー響、チャイナ・フィル等、世界各国のオーケストラに客演を重ねる。国内外で数々のポストを歴任。ドイツではリューベック歌劇場音楽総監督を務め、オペラ公演、劇場専属のリューベック・フィルとのコンサートの双方において多くの名演を残した。ケルン歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパー、バーゼル歌劇場、シドニー歌劇場等へも客演。16年間にわたって芸術監督を務めたびわ湖ホールでは、ミヒャエル・ハンペの新演出による《ニーベルングの指環》を含め、バイロイト祝祭劇場で上演されるワーグナー作曲の主要10作品をすべて指揮した。2014年には横浜みなとみらいホールの委嘱でオペラ《竹取物語》を作曲・初演、国内外で再演されている。2017年紫綬褒章受章。

加藤浩子
東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン講演会も多数。また欧米の劇場や作曲家ゆかりの地をめぐるツアーの企画同行も行い、バッハゆかりの地を巡る「バッハへの旅」は20年を超えるロングセラー。著書に『今夜はオペラ!』『ようこそオペラ』『バッハへの旅』『バッハ』『黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ』『ヴェルディ』『オペラでわかるヨーロッパ史』『音楽で楽しむ名画』『オペラで楽しむヨーロッパ史』など。最新刊は『16人16曲でわかる オペラの歴史』(平凡社新書)。

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