金子三勇士
Freude
リストの背中を追って
text by 八木宏之
cover photo by Seiichi Saito
今こそ第九を届けたい
今年日本デビュー10周年を迎えるピアニストの金子三勇士が、ドイツ・グラモフォンから『Freude』と題するアルバムをリリースする。私はすぐさまそのニュースに注目した。それはアルバムのタイトル『Freude』に自分たちのメディアとのシンパシーを感じたことだけが理由ではない。
ピアニストがキャリアの節目となる年に、クラシック音楽界屈指の名門レーベルからアルバムをリリースするとなれば、ピアニストにとっての大作、例えばベートーヴェンならピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》などをレコーディングしたいと思うものだろう。しかし金子はそういった選択をしなかった。金子がアルバムに収めたのは、ベートーヴェンの交響曲第9番、それもリストによるトランスクリプションを金子自身がアップデートしたものだった。その強い意志を感じさせる選択に、私はとても惹きつけられたのだ。3月4日のアルバム発売と、3月5日の日本デビュー10周年記念リサイタル(サントリーホール)を前に、「なぜ今第九なのか?」その想いを聞いた。
「ひとりの音楽家として、今発信すべき作品はベートーヴェンの交響曲第9番しかないと思ったんです。コロナ禍になって、第九を演奏することができない時期が長く続きました。それでも、第九を聴きたいと願う人たちが日本にはたくさんいました。それならば、オーケストラと合唱による演奏は難しくても、ピアノで第九を演奏することができないか、と考えたのが最初の出発点です。
10年前に日本でデビューしたときに、10年後、30年後、50年後の自分を想像してみました。そこで自分にとって生涯のキーパーソンになるのはフランツ・リストだと確信したんです。自分と同じハンガリーのアイデンティティを持つピアニストであり(金子は日本人の父とハンガリー人の母のもとに生まれた)、私は彼の名を冠した音楽院で学びました。でも私がリストを尊敬するのは、ただ単に、同じハンガリーをルーツに持つピアニストだからという理由だけではありません。リストの生涯とその生き様に強く共感しているからです。リストは一般的にピアノのヴィルトゥオーソとして知られていますが、作曲家、指揮者、教育家、そして文化人として社会に対してさまざまな役割を果たした人でした。19世紀のリストの生き方を、21世紀において自らも実践してみたいというのが、これまでの10年においても、これからの10年においても、ずっと自分の大きな目標です。
日本デビューした時は、10年後のコロナ禍など想像もできませんでした。10周年ではもっと別の作品を弾くのだろうと思っていました。けれどもコロナ禍の今、ひとりの音楽家として何ができるのかを考えた時に、第九を弾きたいと心から思いました。ベートーヴェンの第九は、性別、人種、年齢、職業、宗教、どんな立場のひとであっても受け止めることのできる音楽だからです」(金子三勇士、以下同)
リスト版のアップデート
今こそベートーヴェンの第九を人々に届けたいと願った金子が、尊敬するリストによるこの作品のトランスクリプションを紐解いたのは必然であっただろう。しかし金子はリストが残した2種類のトランスクリプション(ピアノ独奏のためのS.464と2台ピアノのためのS.657)をそのまま弾くのではなく、自らの手でアップデートを試みて「リスト/金子版」を新たに完成させた。
「リスト編曲の第九をいざ弾いてみると、現代のピアノではちょっと物足りないことに気付きました。リストの生きた19世紀には、オーケストラと合唱による第九を聴く機会はほとんどありませんでした。リストは、そうしたチャンスに恵まれない人々にもベートーヴェンの交響曲を聴いてほしいと思い、できる限りオリジナルに忠実に編曲しています。どうやったらベートーヴェンの交響曲のエッセンスを人々に伝えられるか、リストは今日のインフルエンサーのように自分ができることを考えて、このトランスクリプションを完成させました。
しかしリストの時代と現代では、ピアノの性能もホールの大きさも異なります。また21世紀の私たちの耳は録音や実演でたくさんの第九に触れています。そうした違いに起因する「物足りなさ」をなんとかカバーして、リスト版を現代に同期する必要があったんです。リストの弟子、アシスタントのような気持ちでこの作業に取り掛かり、最初にリスト版に基づくピアノ・ソロのための新しい編曲を完成させました。これがアルバム『Freude』に収録されているものです。レコーディングには、いくつものバージョンを持ち込んで、ホールで実際に弾いてみながら、試行錯誤して最終的な形に辿り着きました。
このピアノ・ソロのための「リスト/金子版」が完成したあと、もう少し音に厚みを加えてさらにスケールの大きなものを作りたいという欲が出てきて、リサイタルで演奏するための2台ピアノ版にも取り掛かりました。リストは1851年に第九を2台ピアノのためにも編曲していますが、今回はそれとは別に、レコーディングしたピアノ・ソロのための「リスト/金子版」に基づく2台ピアノ版を新たに作ることにしました」
自分自身との共演
3月5日、サントリーホールでの2台ピアノのための第九「リスト/金子版」の世界初演は、金子が事前に録音した演奏を再現するスタインウェイ社製自動演奏ピアノ「SPIRIO r」と金子自身の共演で行われる。金子が自分自身と共演するこの前例のない挑戦にも大きな注目が集まる。
「スタインウェイ社の“SPIRIO r”は、ピアニストの演奏をタッチの細部まで記録して再現できる最先端の内蔵録音技術を持った自動演奏ピアノです。今回のリサイタルでは、この“SPIRIO r”に録音した自分の演奏と共演して、2台ピアノのための第九“リスト/金子版”を演奏します。ピアニストが“SPIRIO r”に録音した自らの演奏と共演するのは世界初の試みとなります。今回の自分との共演でポイントとなるのは、ステージ上の自分と“SPIRIO r”のなかにいる自分のどちらが主導権を握るのか、あるいは両者は対等なのかという点です。以前“SPIRIO r”を用いて自分自身とブラームスの《ハンガリー舞曲》を連弾したことがあるのですが、そのときは対等な関係性を保つことができました。今回は2台ピアノですが、自分自身を客観的に見つめながら演奏するのが、とても楽しみです」
今回のリサイタルではベートーヴェンの第九の前に、バッハの《インヴェンション》全15曲とモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番《トルコ行進曲付き》が演奏される。ピアノを学ぶ者なら誰もが子供時代に演奏したことのある作品を第九と組み合わせたのには、「原点×挑戦」というリサイタルのテーマが深く関わっていた。
「このリサイタルのプログラムはコロナ禍と深く関係しています。いずれ来るアフターコロナの時代に、人々は原点と挑戦というふたつのキーワードを意識することになると思います。9.11(アメリカ同時多発テロ)や3.11(東日本大震災)など、過去のさまざまな困難のなかにも、原点と挑戦がありました。
バッハのインヴェンションとモーツァルトのソナタは私にとって原点であり、第九は挑戦です。また学校の音楽室に必ずといって良いほど肖像画が掲げられているバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンは、多くの日本人にとってクラシック音楽の原点だと思います。3月5日のリサイタルは私にとっても、聴きに来てくださるお客様にとっても、原点と挑戦のコンサートなのです」
ベートーヴェンの第九をコロナ禍の今だからこそ皆に届けたいという金子の願いが、リストの理念と重なり合ったとき、サントリーホールのステージで「FREUDE(歓喜)」が鳴り響く。
金子三勇士 Miyuji Kaneko
1989年日本人の父とハンガリー人の母のもとに生まれる。6歳で単身ハンガリーに渡りバルトーク音楽小学校に入学、2001年からは11歳でハンガリー国立リスト音楽院大学(特別才能育成コース)に入学。2006年に全課程取得とともに帰国、東京音楽大学付属高等学校に編入する。東京音楽大学を首席で卒業、同大学院修了。
2008年、バルトーク国際ピアノコンクール優勝の他、数々の国際コンクールで優勝。第22回出光音楽賞他を受賞。これまでにゾルタン・コチシュ、小林研一郎、ジョナサン・ノット他と共演。国外でも広く演奏活動を行っている。
NHK-FM『リサイタル・パッシオ』に司会者としてレギュラー出演。2019年5月には新譜CD『リスト・リサイタル』をリリースした。コロナ禍でも、オンラインを活用したさまざまな企画を発信中。2021年には日本デビュー10周年を迎えた。
キシュマロシュ名誉市民。スタインウェイ・アーティスト。
オフィシャルHP http://miyuji.jp/公演情報
日本デビュー10周年記念
金子三勇士 ピアノ・リサイタル
〜原点×挑戦〜2022年3月5日(土)19:00
サントリーホールバッハ:インヴェンション(全15曲)BWV772~786
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331(300i)《トルコ行進曲付き》
ベートーヴェン(リスト/金子三勇士編曲):フロイデ 交響曲第9番 ニ短調 Op.125《合唱》から第4楽章(特別編・2台ピアノ)公演詳細:https://www.japanarts.co.jp/concert/p941/
新譜情報
『Freude』
ベートーヴェン(リスト/金子三勇士編曲):フロイデ 交響曲第9番 ニ短調 Op.125《合唱》から第4楽章(特別編)
シューベルト(リスト編曲):アヴェ・マリア
モーツァルト(リスト編曲):アヴェ・ヴェルム・コルプス
J.S.バッハ(金子三勇士編曲):G線上のアリア
録音:2022年1月 稲城市立iプラザ
ユニバーサル ミュージック合同会社
アルバム詳細:https://www.universal-music.co.jp/kaneko-miyuji/products/uccy-1114/