フランチェスコ・トリスターノ
オン・アーリー・ミュージック
今を生きる古楽がグルーヴしはじめる
text by 原典子
translated by 坂本麻里子
昨今、クラシックとほかのジャンルを垣根なしに行き来する音楽家は増えてきた。だが、フランチェスコ・トリスターノほど高度な次元で、しかもクールにそれを実践している音楽家を筆者は知らない。
ピアニストとしてグルーヴィなバッハ演奏でコンサートホールの聴衆を魅了したかと思えば、DJとしてダンスフロアの若者をも熱狂させる。トリスターノの存在をはじめて知ったのは、2007年の日本デビュー・アルバム『Not For Piano』だったが、それ以来、クラシックの名門ドイツ・グラモフォンとの契約、デトロイト・テクノの巨匠カール・クレイグとのコラボレーション、坂本龍一のキュレーションによるイベント『Glenn Gould Gathering』への参加など、神出鬼没な活躍ぶりにはいつも驚かされてきた。
その彼が、このたびリリースした最新アルバムのテーマが「古楽」だというのだから、注目せざるを得ない。ソニー・クラシカルからの3枚目となる『オン・アーリー・ミュージック』について、活動拠点のバルセロナからオンラインでインタビューに応えてもらった。
古楽を自由にしたかった
――新作のテーマは「古楽(early music)」とのことですが、トリスターノさんと古楽との出会いについて教えてください。
私が育った家庭では古楽がよく流れていたので、子どもの頃からグレゴリオ聖歌やさまざまなルネサンス、バロックの音楽に親しんで育ちました。そして成長し、私にとって特別な存在となるグレン・グールドの録音作品と出会います。グールドはウィリアム・バードやオーランド・ギボンズといった、忘れ去られていた古い時代の作曲家を復活させたことでも知られていますね。
――古楽のフィールドで影響を受けた音楽家はいますか?
ドイツのリュート奏者、コンラート・ユングヘーネルのバッハ録音は大好きですし、ジョルディ・サバールの録音からも多くのインスピレーションを得ました。自分でもハープシコードを弾いてみたこともあったんですよ。楽器を所有していたわけでもなく、上手に弾きこなすのは難しかったのですが、その経験を通してたくさんの素晴らしい古楽の作品を知ることができました。
とはいえ私はピアニストですから、「歴史から影響を受けた音楽」を作ることはできても、「歴史を正確に再現した音楽」を演奏することはできません。古楽の作品が書かれた当時、ピアノは楽器として存在していませんでしたから。そこで、コンテンポラリーな文脈をとることにしました。モダン・ピアノとスタジオのテクノロジーをフルに用いて作った、私という人間の音楽。そうすることで、古楽を自由にしたかったのです。
――「古楽を自由にする」という言葉は、まさにこのアルバムの音楽にぴったりだと思います。
古楽は一部の「古楽好き」だけのものではありません。もっとも、古楽を愛する学究肌のナードのことはリスペクトしていますよ。けれど古楽を壁で囲んで、そのままの形で閉じ込めておく必要はありません。今から400年前に書かれた音楽であっても、その当時と同じぐらい新鮮に感じられる、今日性があるということを提示し、若い人たちとシェアしたいと思いました。
古楽にインスパイアされたオリジナル曲も
――トリスターノさんはこれまでにもフレスコバルディやブクステフーデなど、折に触れて古楽のレパートリーを演奏・録音なさってきました。古楽をテーマにしたアルバムを作ることは、かねてから構想されていたのでしょうか?
“early music(古楽)”だけで一枚のアルバムを作るのは長年の夢でした。それが“on early music(古楽について)”になったのには理由があります。
ご存じのように、2年前にこの世界は変わりました。私の住むバルセロナでは2020年に48日間の外出禁止令が出されたのですが、それが解除された49日目、外に出て朝日が昇るのを眺めたときのことは忘れられません。それ以来、毎朝ランニングを続けていますが、日の出という神秘的な瞬間が与えてくれるエネルギーやフィーリングは、私の日常のライトモティーフとなっています。
日の出のマジカルな光景は、はるか昔から現在に至るまで連綿と続く時間、日々の営みを感じさせるものです。つまり、今を生きている「自分のなかに存在するなにか」と過去は共鳴し合っている。それならばと、古楽にインスパイアされた作品を書きはじめたんです。
――それでピーター・フィリップス、ジョン・ブル、オーランド・ギボンズ、ジローラモ・フレスコバルディといった作曲家の作品とともに、トリスターノさんのオリジナル曲が並ぶユニークな一枚ができあがったのですね。
アルバム制作にあたり、私は3種類の方法をとりました。ひとつめは、古楽を本来の姿のまま、楽譜に書かれた通りに演奏するというもの。ふたつめは、古楽を素材として取り上げ、そのスコアを原材料にして新しい音楽を仕立てるというもの。一種のリミックスですね。そして3つめは、古楽にインスパイアされる形で自分のオリジナル曲を書くというものです。
オリジナル曲には、古楽から取り入れたハーモニーやリズム、ベースラインといった要素がなにかしら含まれています。即興で演奏したように聞こえる箇所もあるかもしれませんが、実はリミックス曲もオリジナル曲も、すべて譜面に書き起こされています。
ダンスフロアで鳴るテクノトラックのように
――トリスターノさんにとって、古楽の魅力とはどんなところにあるのでしょう?
まずリズムですね。文明の黎明期から、人間にとってもっとも原初的な表現衝動がダンスでした。私の子どもたちを見ていても、言葉を話したり歌を歌ったりするようになる前から、ダンスをしていましたから。そして、ここに録音したイギリスやイタリアのルネサンスから初期バロックの時代の音楽において、ダンスのリズムはより洗練され、輝くようになったと思います。私はこれらのリズムを、モダン・ピアノを使って思いっきりグルーヴさせることができます。
――たしかに曲名には「ガリヤルド」「クーラント」「フォリア」「パヴァン」といった舞曲を表す言葉がたくさん登場します。トリスターノさんは、こうした言葉を現代のリズムやグルーヴに翻訳するように演奏していらっしゃいますね。
ピアノは打楽器のような役割も果たしますから、適正な奏法とスタジオ技術を用いてちゃんと表現してあげれば、古楽は踊りはじめ、バウンスしはじめます。とはいえリズムがあまりに遅いと、ダンスのパターンとしては機能しなくなります。そのかわり、スローなリズムは心拍のような存在に変容していきます。究極的にリズムが回帰していく先はハートビートというわけです。いずれにせよ、ダンスのフィーリングは過去何百年の間、一度もストップすることなく現在まで続いてきました。
――クラシックとダンス・ミュージック、どちらにも精通したトリスターノさんの言葉だと説得力があります。
古楽のもうひとつの魅力として挙げられるのはハーモニーです。これらの音楽に備わった和音は、いつも私の魂に響いてきます。作曲家たちが聴き手をあっと驚かせるために忍ばせた独自の「ひねり」も素晴らしく、「このハーモニーはこう展開していくはずだ」と思っていると、予想とはまったく違うところにいったりするんです。
たとえばピーター・フィリップスの《ニ調のファンタジア》などは、3分ほどの短い曲のなかで彼の全人生が凝縮した形で描写されており、細かいひねりや、通常の音楽語法を破った仕掛けが満載。これをアップデートして現代の若者に聴かせてみたら、さぞ面白いだろうと思いました。
――サウンド面においても、ピアノのペダルやエレクトロニクスなどを駆使して、独自の音響世界を創り上げているところがトリスターノさんらしいです。
私が作る音楽の大きな特徴はサウンドにあると、自分でも思っています。ピアノのレコーディング音源の多くは似たり寄ったりの響きですが、私はレコーディング音源も「私らしく」響いてほしい。そのために、サウンドエンジニアとタッグを組んであらゆるスタジオ技術を用い、自分が求めているサウンドを作り出しました。
あたかもピアノとスタジオというふたつの楽器が存在しているかのように、スタジオそのものを「もうひとつの楽器」として使ったのです。そうやってレコーディングしたピアノの音を、ポストプロダクションの段階で変容させ、新たな生命を吹き込んでいきました。
――レコーディングは東京とパリの2回に分けて行なわれたそうですね。
最初のレコーディングはパンデミックの起きる少し前に東京のソニー・ミュージックスタジオで行ないました。2021年の2回めはパリにあるライヴ用のシアターのような空間で録ったのですが、ここではマイクを室内のあらゆる場所に立てて、ピアノのさまざまなレゾナンスを捉えられるようにしました。
ピアノというのはじつに面白い楽器で、鍵盤を押すとハンマーが弦を打ち、その弦がピアノの内部で共振します。そのとき、ピアノという楽器そのものも、スタジオという空間で共振している。つまり空間の音響も、ピアノにとっての第2の共振器のようなものになるわけです。我々はそこで生まれる響きを最大限に捉え、さらにピアノのソステヌートペダルでさらにもう一層の共振を重ねるなどして、豊かなサウンドの絨毯を作っていきました。
――ピアニストとしてだけでなく、作曲家として、プロデューサーとしてのクリエイティビティが存分に発揮されたアルバム、古楽に新たな光を当てる一枚としてぜひ多くの人に聴いていただきたいです。
ここに録音した作品が書かれた16~17世紀は、作曲すること、作品を解釈すること、音楽をプロデュースすること、楽器を演奏することや歌を歌うこと、それらの間に大きな違いはなかったのではないかと思います。すべてが「音楽を作ること」として捉えられていました。
アルバムを作るうえで大切にしているのは「自分は聴き手になにをもたらしたいか」「人々とどんなことをシェアしたいか」ということ。400年前の音楽を、ダンスフロアで鳴るテクノトラックのように機能させ、古楽はコンテンポラリー音楽と同じくらい今日性があるものだとプレゼンテーションする。そして、これまで古楽の存在すら知らなかった若いリスナーに「わあ、これクールでファンキーだな!」と感じてもらう。それが私の使命だと思っています。
――非常に興味深いお話をありがとうございました。
『オン・アーリー・ミュージック』
01. トリスターノ:トッカータ
02. トリスターノ:ジョン・ブルのニ調のガリヤルドによって
03. フィリップス:ニ調のファンタジア
04. トリスターノ:サーペンティーナ
05. ブル:清き心もて称えん
06. トリスターノ:ジローラモ・フレスコバルディの4つのクーラントによって
07. フレスコバルディ:フォリアの旋律によるパルティータ
08.トリスターノ:リトルネッロ
09.トリスターノ:クリストバル・デ・モラレスの「死の悲しみが私を取り囲み」によって
10. ギボンズ:パヴァン
11. ギボンズ:エアとアルマン
12. ギボンズ:イタリアン・グラウンド
13. ギボンズ:グラウンド
14. トリスターノ:第2チャッコーナ
15. フレスコバルディ:パッサカリアによる100のパルティータ
16. トリスターノ:RSのためのアリア
17. スウェーリンク:ファンタジア ニ調(ライヴ~『グレン・グールド・ギャザリング』より)※ボーナストラックフランチェスコ・トリスターノ(ピアノ、シンセサイザー、エレクトロニクス)
フランチェスコ・トリスターノ Francesco Tristano
1981年、ルクセンブルク生まれ。フランチェスコ・トリスターノは、古典的なトレーニングを受けた実験的なピアニスト、鍵盤奏者、作曲家であり、その音楽的な試みは多岐にわたっていて分類するのは困難である。彼はそのキャリアにおいて、さまざまな音楽――バロック音楽、電子音楽、ダンス、テクノ、前衛音楽など――をそのフィールドの頂点を極めるアーティストたちとのコラボーレションなどを通して新たなリスニング体験へと昇華させてきた。彼のマントラ(スローガン)は「洗練された/教養のある」音楽と「ポピュラー」音楽と呼ばれるものの間には実は差異がない理由についてのアルバン・ベルクの考察から借用された「音楽は音楽(Music is music)」である。
地元ルクセンブルクの音楽院などを経て1998年に名門ジュリアード音楽院に入学。在学中の2002年にバッハの『ゴールドベルク変奏曲』でアルバムデビューしたトリスターノは、協奏曲を含む数枚のアルバムをいくつかのレーベルからリリース、またアメリカ時代から親しんできたテクノをピアノで再構築した『Not For Piano』(2007年/これが日本での彼のデビュー作である)をはじめとしてエレクトロニック・ミュージックの作品をリリースしつつ、クラシックの名門ドイツ・グラモフォンと契約。古典とモダンを俯瞰した『バッハケージ』(2011年)、ブクステフーデとバッハの作品を取り上げた『ロング・ウォーク』(2012年)、アリス=紗良・オットとのデュオ作品『スキャンダル』(2014年)を発表。
2016年にはデトロイト・テクノの名門レーベルTransmatからテクノ系ソロ・アルバム『フラジャイル・テンション』を、2017年にはデトロイト・テクノの巨匠プロデューサー、カール・クレイグがオーケストラと共演したアルバム『Versus』に共作演者として参加と、その幅広い音楽性の発露はとどまることを知らない。2017年にソニー・クラシカルと独占契約を結んだ。2017年の『ピアノ・サークル・ソングス』、2019年の『東京ストーリーズ』はいずれもフランチェスコの作曲・演奏によるもの。またグレン・グールドの生誕85周年を記念して2017年末に東京で坂本龍一のキュレーションにより開催されたイベント『Glenn Gould Gathering』に参加し、2018年にそのライヴ・アルバムも発売された。
オフィシャル・サイト https://www.sonymusic.co.jp/artist/francescotristano/