マックス・リヒターからの招待状01

映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』

<Review>
映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』

眠りのなかで自分自身と出会う「体験」

text by 原典子
cover photo ©2018 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin All Rights Reserved 

 

睡眠中に聴くことを前提とした8時間にもおよぶアルバム、マックス・リヒターの『スリープ』がリリースされたのは2015年のこと。そのころ私は、前年に出産した娘を寝かしつけるためにこのアルバムをかけていた。朝から晩まで赤ん坊のペースに振り回される日々のなか、穏やかに等間隔のリズムを刻むピアノの音を聴きながら、眠りに落ちていく子の顔を眺めているひとときだけが休息だった。

それから4年後の2019年、「ポスト・クラシカルの旗手」として日本でもその名が広く知られるようになったリヒターを迎えて、すみだトリフォニーホールで『マックス・リヒター・プロジェクト』が開催された。公演後のサイン会の列に5歳になった娘と並び、「あなたの音楽を聴いて育ちました」と御礼を伝えたときの、彼の笑顔が忘れられない。

アルバムだけでなく、ライヴ・パフォーマンスのプロジェクトでもある『スリープ』は、2018年にロサンゼルスのグランドパークではじめて野外公演が行なわれて以降、シドニーのオペラハウス、アントワープの聖母大聖堂など、世界各地で公演を重ねてきた。会場に簡易ベッドを並べ、夜から明け方に至るまでの8時間を超えるコンサート。映画『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』は、そんな前代未聞のプロジェクトのドキュメンタリーである。

マックス・リヒターからの招待状02
©2018 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin All Rights Reserved

この映画においては、リヒターの公私にわたるパートナーであるユリア・マールの存在がきわめて重要となる。リヒターが海外ツアーに出ている間、幼い子どもたちを抱えて家で待っているしかなかった彼女は、いつも配信でリヒターのライヴを聴いていた。一日じゅう子どもの相手をして疲れた夜などは、聴きながら眠りに落ちてしまうことも。そんなとき、夢と現実の境界のような不思議な空間を感じ、そこでは音楽の聞こえ方がまったく違うことに気づく。「この素晴らしい体験を形にすべき」とリヒターに提案したところ、「僕もずっと前から考えていた」と言われ、ふたりの共同プロジェクトとして『スリープ』がスタートしたというのだ。

映像と人類学の専門家であるマールは、スタート当初から『スリープ』のドキュメンタリー映画を作る計画で、製作過程の映像を撮りためていた。しかし子育てと仕事の両立に追われ疲れ果てていた彼女は、ナタリー・ジョンズにすべての映像素材を託し、映画の監督を委ねることに。だが結果として、第三者であるジョンズの視点が入ったことが、この映画にさらなる深みと広がりを与えている。

通常のコンサートでは演奏者が聴衆に主題を聴かせるが、『スリープ』公演においては「寝ている人たちが主題」だとリヒターは語る。人々は慌ただしい日常から切り離された空間での特別な体験を求めて集い、演奏を聴きながら、眠ったり、思索に耽ったり、散歩したり、思い思いに夜明けまでの時間を過ごす。LGBTのカップル、音楽教師、ビジュアルアーティストなど、カメラは参加者たちの語りを通して、彼らの人生にここでの体験がどういう変化をもたらしたかを丁寧に描き出す。そう、この映画の主人公もまたリヒターではなく、「寝ている人たち」なのである。

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©2018 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin All Rights Reserved

眠りについているとき、あるいは思考を巡らせているとき、人は意識の奥底へと深く潜って行き、自分自身と出会う。それこそが『スリープ』という「体験」がもたらす作用にほかならない。みずからの姿を映し出した水面に、小さな波紋を生み出すのがリヒターの音楽。自然界に数多く存在するフィボナッチ数列や、生楽器だけでは出すことが難しい低周波音など、あらゆる仕掛けを施しながら人々の意識を内面へといざなう、リヒターはいわば水先案内人だと言えるだろう。

あらゆる意味において前例のないプロジェクトを遂行するためには、数えきれないほどの困難が立ちはだかっていた。それでもリヒターとマールは諦めずに挑戦し続けた。高速道路を走っているような日々にストップをかけ、人々が自分自身を見つめる時間を作るために。そして本当に大切なものを見つけた人同士が、互いにコネクトするために。そのような意味において、これは単なる音楽家のドキュメンタリーではなく、ひとつの家族の物語であり、現代に生きる我々を大きな愛で包み込む映画である。

マックス・リヒターからの招待状ポスター『SLEEP マックス・リヒターからの招待状』

3月26日(金)
新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開

監督:ナタリー・ジョンズ
製作:ステファン・デメトリウ、ジュリー・ヤコベク、ウアリド・ムアネス、ユリア・マール
撮影:エリーシャ・クリスチャン
出演:マックス・リヒター、ユリア・マール、(ソプラノ)グレース・デイヴィッドソン、(チェロ)エミリー・ブラウサ、クラリス・ジェンセン、(ヴィオラ)イザベル・ヘイゲン、(ヴァイオリン)ベン・ラッセル、アンドリュー・トール
2019年/イギリス/英語/99分/シネスコサイズ/原題:Max Richter’s Sleep/映倫:G
配給:アット エンタテインメント 

【公式HP】max-sleep.com

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