ロバート・ウィルソン/フィリップ・グラス
《浜辺のアインシュタイン》
神奈川県民ホール

<Cross Review>
ロバート・ウィルソン/フィリップ・グラス

《浜辺のアインシュタイン》

神奈川県民ホール

cover photo 撮影:加藤甫

《浜辺のアインシュタイン》キービジュアル(イラスト:大友克洋)

グラスのエクリチュールが高い濃度で
エキスのように詰まっている

Pause Catti

フィリップ・グラスの《浜辺のアインシュタイン》は思い入れがある作品だ。中学生の頃、岐阜県立図書館でその奇妙なタイトルに引き寄せられ、『浜辺のアインシュタイン ハイライト』というCDを借りた。「ハイライト」の意味もろくに知らなかったが、解説を読むと、どうやらこれは作品をCD1枚に収まるようにまとめたものであるということがわかった。

テリー・ライリーの《Poppy Nogood And The Phantom Band All Night Flight》など、長大な時間を要する音楽をなんとなく神聖なものだと考えていた当時の私は、《浜辺のアインシュタイン》が4時間に及ぶ作品であると知って、ぜひ完全版も聴いてみたいと思った。後日、少ないお小遣いを貯めて、中古の完全版ボックスセットを買った。そのときの感動を今でもしっかりと覚えている。《浜辺のアインシュタイン》はそんな個人的な思い出が沢山詰まった作品なのだ。

それゆえに、私はこの上演のチラシを見たとき、《浜辺のアインシュタイン》のタイトルに飛びつき、さらにそれが舞台を含む上演であると知って、今まで生きていてよかったと思った。その喜びは決して誇張ではないし、そう思ったのはきっと私だけではなかったはずだ。

撮影:加藤甫

念願の舞台上演では、CDで聴いていたものが自分の目の前に完全なかたちで現れた。演奏家の肉体がすぐそこにある。ハノンの最終ページの長い練習に苦労していた私には途方もないものに感じられる音楽が、キーボーディストの幸福な疲労感を伴って身体に伝わってくる。一糸乱れぬアンサンブルの精度も凄まじい。

伴奏に使われるようなアルペジオを主要素として引き上げたパッセージは、フィリップ・グラスのシグネチャー音型といって差し支えないだろう。鍵盤楽器の場合、左右の手の動きが鏡写しの動きとなる。結果として、膨張と収縮を絶え間なく急速に繰り返しているように聞こえる。無駄なく構築されたシグネチャー音型と和声は、グラスがナディア・ブーランジェのもとで受けた厳しい教育の賜物だろう。グラスの自伝はブーランジェのレッスンがいかに厳しかったかについてかなりのページを割いている。

撮影:加藤甫

これまでも何度か、この長時間に及ぶ音楽を人間が演奏する意味はなんなのかと考えることがあった。今回得られた私の仮説は、演奏によって発生する肉体の疲労感が、舞台上の演者とダンサー、ピットのアンサンブル、そして客席にいる観衆を糊のように接続する役割を果たしているということである。グラスのエクリチュールが高い濃度でエキスのように詰まっている、途中の入退場が自由ではない空間に4時間も座っていれば、そのエキスは身体に染み込んでいくのだ。

1970年代、グラス、ライリー、ラ・モンテ・ヤングのように、長大で繰り返しが多い音楽を作曲していた音楽家たちは、「長さ」をスタイルだと認識していたように思える。ここでいう「長さ」は、マーラーの交響曲の長さとは性質が異なっている。グラスたちにとっては「長さ」自体がひとつの目的であり、これを達成するために、レンガ積みのように同じものを並べたり、変化が少ない音を長時間演奏したりする。それに対して、マーラーの交響曲は「長さ」を目的とはしておらず、それらは作曲行為の結果として長くなったのである。

《浜辺のアインシュタイン》におけるシグネチャー音型や「長さ」は、自分のスタイルを明確に識別させる記号を持つということが、いかに重要かという示唆を私に与えてくれた。

撮影:加藤甫

身体という座標、を越えて

長屋晃一

ロバート・ウィルソンとフィリップ・グラスによるオペラ《浜辺のアインシュタイン》――あのあまりに有名なプロダクションに見慣れた目と耳にとって、神奈川県民ホールの上演は、演奏、演出ともに、その印象と世界観を完全に覆した。それは驚異的な舞台であった。

平原慎太郎の演出プランの大枠は次のようなものといえる。躍動する生の世界から、不透明なビニールに覆われた死の世界へ、そこから再生し、最後は愛を語り合う。筋立ての薄いこの物語から、「生→死→生(+愛)」という明快な構造をあざやかに視覚化した。しかし、これは舞台を形づくる輪郭にすぎない。

ウィルソンの演出は、三次関数の座標軸のような直線を基調とし、登場人物たちは各々の関数を定められ、その関数と与えられた値域を移動する点として機能している。その幾何学的な美しさは、洗練された、都会的でクールな印象を与えた。これに対して、平原の演出では、ダンサーたちは各々が関数上の一点であることを拒絶しようとふるまう。とはいえ、無軌道でもない。むしろ、別の座標軸がダンサーたちの身体を貫いている。

撮影:加藤甫

舞踊する身体には舞踊の歴史が折り畳まれている。たとえば、第1幕には、ニジンスキーの《ペトルーシカ》や《春の祭典》がいる。第4幕には、痛めつけられたジゼルが、そしてピナ・バウシュがいる、等々。もちろんウィルソンの座標と関数も暗示される。舞台を左右に移動する岩、道化が噴き出す煙、左右に動く台車、カプセルに代わる担架……浜辺に流れ着く貝殻や陶片が各々の過去を持ちながら、同時にその浜辺にあるように、平原の舞台では、舞踊史を彩る無数のイメージがダンサーの身体に生起しつつ、同時に舞台上に展開する。

撮影:加藤甫

ダンサーの身体に波のように押し寄せるのは、キハラ良尚が率いる演奏であった。そこには個々の演奏者の身体が音を生み出す生々しさがある。そのダンスと音楽に切り結ぼうとする日本語の台詞は聴きとりづらい。しかし、切れ切れの言葉が反復されるうちに、次第に頭の中でイメージを結んでいく。まったく都会の洗練からは遠い場所にある《浜辺のアインシュタイン》、だがその浜辺は、生きたものたちの猥雑なまでに有機的な営みがある。生命への賛歌、それは愛といってよい。

束の間の中に果てしない過去と未来が折り畳まれている、その途方もないエネルギーは、E=mc2という、あの有名な質量とエネルギーの等式を比喩的に表してもいよう。それはまぎれもなく「浜辺」の「アインシュタイン」なのであった。

撮影:加藤甫

ミニマルにしてマキシマム

原典子

奇しくも今年はフィリップ・グラスの《浜辺のアインシュタイン》が、横浜と大阪でほぼ同時期に上演される機会に恵まれた。私はポスト・クラシカルが好きな友人・知人たちに「ぜひ観に行って」と勧めていた。スティーヴ・ライヒと並び、グラスのミニマル・ミュージックはポスト・クラシカルがもっとも色濃く影響を受けた音楽だからだ。しかし10月9日、神奈川県民ホールで観たステージは、私の想像から大きくかけ離れたものだった。

まず、すさまじい熱量に圧倒された。これまで映像で接したことのある《浜辺のアインシュタイン》は、ミニマルなデザインのセットや衣装で、ダンスも静的な印象を与えるものが多かった。しかし、今回の平原慎太郎演出・振付による新制作版はきわめて動的。統率されることなく動き回るダンサーたちから放射されるエネルギーが横溢し、まるで分子の振動から熱が生まれる瞬間を見ているようだ。

撮影:加藤甫

さらに、意味が通じそうで通じない言葉の断片が投げかけられる。このオペラが作られた1970年代という時代の物語を換骨奪胎したかのような、脈絡のない言葉たちを追いかけていくうちに脳がバグる。そこに音の洪水が押し寄せる。電子オルガンの音圧が肉感をともなって迫りくるなか、とめどなく繰り返される音楽に、ただただ身を委ねるしかない4時間。これぞミニマル・ミュージックの醍醐味かと、あらためて実感した。

撮影:加藤甫

いっぽうで、「イメージのオペラ」である《浜辺のアインシュタイン》に、今回の上演ではかなり明確なストーリーラインを読み取ることができたのも予想外の驚きだった。ビニールで覆い尽くされた舞台は3.11の津波を連想させ、一面に広がる死の世界から、愛を語らうラストへ――。ガムラン音楽のような、長時間にわたる反復がもたらすトランス状態こそがミニマル・ミュージックの醍醐味だとしたら、果たしてそこにストーリーラインは必要なのか? と思ったのと同時に、グラスが自身の音楽をミニマルと呼ばれるのを嫌う理由はこういうところにあるのかもしれないとも想像した。

今日の若い人たちが聴いているポスト・クラシカルに溶け込んだミニマル・ミュージックは、反復がもたらす心地よさや安らぎといった要素が大きい。しかし、今回の《浜辺のアインシュタイン》 は今日的なイディオムを用いながらも、1970年代にグラスとロバート・ウィルソンがこの作品を生み出した当時の熱を、そのまま伝えてくれるものだったと思う。「ミニマルにしてマキシマム」。そんな言葉が浮かんだ。

撮影:加藤甫

【神奈川県民ホール《浜辺のアインシュタイン》公演Webページ】
https://www.kanagawa-kenminhall.com/einstein

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