<Review>
ヘルベルト・ブロムシュテット×NHK交響楽団
音楽を私ごととして聴く喜び
text by 八木宏之
写真提供:NHK交響楽団
NHK交響楽団 第2046回定期公演 Aプログラム
2025年10月18日(土)18:00
NHKホールヘルベルト・ブロムシュテット(指揮)
クリスティーナ・ランツハマー(ソプラノ)
マリー・ヘンリエッテ・ラインホルト(メゾ・ソプラノ)
ティルマン・リヒディ(テノール)
スウェーデン放送合唱団
NHK交響楽団ストラヴィンスキー:《詩篇交響曲》
メンデルスゾーン:交響曲第2番 変ロ長調 作品52《讃歌》NHK交響楽団 第2047回定期演奏会 Cプログラム
2025年10月24日(金)19:00
NHKホールヘルベルト・ブロムシュテット(指揮)
レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)
NHK交響楽団ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
世界を飛び回る現役最高齢指揮者
1927年生まれのヘルベルト・ブロムシュテットは、98歳という高齢にありながら、世界各国のオーケストラの指揮台に立ち続ける驚異の存在である。まもなく100歳になろうかという人間が、飛行機に乗って世界を飛び回っているだけでも信じ難いことだが、それに加えてブロムシュテットは複雑なスコアを記憶し、オーケストラを統率し、毎夜数千の聴衆を熱狂させているのだから、それはもはや奇跡というほかない。ブロムシュテットとNHK交響楽団は、1981年以来、半世紀近くにわたって共演を重ね、2016年にはオーケストラから桂冠名誉指揮者(1985年から2015年までは名誉指揮者)の称号が贈られるほど、両者の関係は深い。コロナ禍や健康上の理由で来日が叶わなかった年もあったものの、ブロムシュテットが客演するN響定期公演は、近年、日本のクラシック音楽界の秋の風物詩となり、大きな注目を集めてきた。
私も高校時代にN響の定期公演へ足を運ぶようになって以来、ブロムシュテットの音楽にはたびたび接してきた。台風で公共交通機関がストップし、数えるほどの聴衆しかいないなか演奏されたブルックナーの交響曲第7番(第1708回定期公演 Bプログラム、2011年9月21日)など、ブロムシュテットとN響の公演に忘れ難いものはいくつもあるが、実のところ、近年は少し足が遠のいていた。息子が生まれて、自由にコンサートへ行けなくなったというのもあるのだが、毎度ブロムシュテットが登場する前から異様なほど高まる聴衆の熱気に、気圧されてしまったというのが正直なところである。もはや神話になりつつある指揮者を前にして、純粋に音楽を楽しむことができるのか、自信が持てなかったのだ。しかし、数年ぶりにブロムシュテットとN響の演奏を聴いて、自分のそうした懸念はまったく的外れなものだったと思い知った。この秋、NHKホールに鳴り響いたメンデルスゾーンやブラームスは、老境の巨匠を拝むような音楽ではなく、むしろ青春の息吹すら感じさせる実に瑞々しいものだったのだ。

写真提供:NHK交響楽団
スウェーデン放送合唱団を迎えた祝祭
10月18日のAプログラムで演奏されたのは、ストラヴィンスキーの《詩篇交響曲》とメンデルスゾーンの交響曲第2番《讃歌》。両曲とも合唱を伴う交響的作品である。合唱には世界最高峰のコーラスのひとつである、スウェーデン放送合唱団が招かれた。スウェーデン放送合唱団がN響の定期公演に出演するのは、2001年のベルリオーズの《キリストの幼時》(指揮はシャルル・デュトワ)以来、24年ぶりとなる。
合唱付きのシンフォニーであるという点を除けば、共通点がなさそうに思える2曲だが、《詩篇交響曲》はボストン交響楽団の創設50周年を、交響曲第2番《讃歌》はグーテンベルクの活版印刷技術の発明から400年の節目を記念して書かれた作品で、ともに祝祭的な音楽である。満席となったNHKホールは開演前から凄まじい緊張感に満たされ、ブロムシュテットが楽員たちとともにステージに現れると、客席からは割れんばかりの拍手が送られた。ブロムシュテットは歩行器を使いながらもしっかりとした足取りで指揮台に登り、それを楽員たちがあたたかい眼差しで見守る。その様子は指揮者とオーケストラというよりも、室内楽をともに奏でる仲間といった趣である。
ストラヴィンスキーの冒頭、オーケストラのアンサンブルは微かに揺らぎ、合唱にもNHKホールの響きへの戸惑いがほんのわずかに聞かれた。それらは満席のNHKホールの響きが、客席に誰もいないゲネラル・プローべ時と異なっていたことが原因かもしれないが、N響とスウェーデン放送合唱団にはそうした環境の変化に瞬時に対応する力が備わっているので、演奏はすぐさま修正される。
プログラム前半の頂点は、第3楽章で訪れた。オーケストラの短い序奏に続いて、合唱が「ハレルヤ」と歌い出すと、厚い雲に覆われた空から光が差し込み、ホールの空気が一変する。合唱団の説得力に満ちた熱唱にオーケストラも反応し、N響の響きはぐんぐん引き締まっていく。音楽が天へと昇っていくような幕切れで、合唱に寄りそう久保昌一のティンパニの安らぎに満ちた音は、曲が終わったあとにも、長く頭の中に鳴り続けた。

写真提供:NHK交響楽団
後半のメンデルスゾーンでは、ソプラノのクリスティーナ・ランツハマー、メゾ・ソプラノのマリー・ヘンリエッテ・ラインホルト、テノールのティルマン・リヒディが加わり、ステージはさらに華やかさを増す。交響曲第2番《讃歌》は全10曲からなり、管弦楽のみで演奏される第1曲にはソナタ楽章、スケルツォ楽章、緩徐楽章の要素が凝縮され、それに続く9曲がフィナーレ楽章に相当するという特殊な構造を有している。
3本のトロンボーンが奏する主要モチーフに導かれて交響曲が幕を開け、オーケストラの全奏が響き渡ると、圧倒的な多幸感が全身を包み込む。一聴してN響とわかる密度の高い響き。この10年で東京のオーケストラは演奏技術が向上し、どの団体も日々ハイレベルな演奏を聴かせてくれているが、サウンドの完成度という点では、N響は頭ひとつ抜きん出ている。まるでひとりの音楽家が演奏しているかのような、秩序あるアンサンブルへの執念とこだわりは、N響のなによりの強みだろう。ここまでまとまりのある弦楽セクションのサウンドは、一朝一夕に作り出せるものではなく、1世紀にわたって培われてきたこのオーケストラの演奏様式とその歴史の重みを感じずにはいられない。そうした弦楽器の響きと完璧に調和する久保のティンパニの音色は、メンデルスゾーンの音楽に貫かれる気品を体現していたように思う。
後半のハイライトは、第8曲のコラール《いざやともに》にあった。ルターによるドイツ語訳新約聖書に基づく本作にあって、唯一聖書以外からの引用であるこのコラールは、交響曲全体のクライマックスというべきものだろう。グーテンベルクの活版印刷が宗教改革を後押ししたことを思い返せば、ルター派のコラール《いざやともに》は、この作品の核心と考えることができるのだ。テノール独唱の「夜はいつ明けるのか」との問いかけに、ソプラノ独唱と合唱が「夜は過ぎ去った」と告げたあと、《いざやともに》が静けさのなか聞こえてくると、私は思わず涙を流した。音楽を聴いて泣くなんて本当に久しぶりのことだ。スウェーデン放送合唱団の澄み渡る青空のような歌声に耳を傾けていると、不思議なことに、頭の中には子供時代の思い出の断片が次々と浮かんでくる。子育てをしていると、すっかり忘れていた幼少期の辛い記憶がフラッシュバックして、気が滅入ることがしばしばあったのだが、このコラールがそうした過去の全てを美しく尊いものに浄化してくれたように感じられた。
ライフステージの変化のなかで、音楽を自分自身と重ね合わせることが段々と難しくなっていたけれど、ブロムシュテットは、私の心と耳の間を隔てていた薄い幕をそっと取り除いてくれたようだった。冒頭のモチーフが高らかに歌い上げられて交響曲が力強く閉じられると、ホールは文字通り熱狂に包まれたが、ブラヴォーの嵐の中、私はひとり、幸福を静かに噛み締めていた。再び音楽を私ごととして聴くことができた喜びは、言葉には言い尽くせないもので、そうした体験を与えてくれたブロムシュテットには深い感謝の念を抱いた。

写真提供:NHK交響楽団
98歳、未だ老境にあらず
10月24日のCプログラムは、ブラームスのピアノ協奏曲第2番と交響曲第3番という晩秋に相応しい組み合わせ。ピアノ独奏にはレイフ・オヴェ・アンスネスが迎えられた。私は当初、作曲家円熟期の作品を組み合わせたこのプログラムに、98歳の指揮者の枯れた味わいを期待したのだが、実際に聴かれた音楽はそれとは正反対のエネルギッシュなものだったので、大いに驚かされた。
今井仁志の芯の通ったホルンの響きが、長大な協奏曲の始まりを告げると、アンスネスが程よい重みを持ったタッチで応答する。ブラームスのピアノ協奏曲、とりわけ第2番では、ピアニストが独奏パートの重厚さを強調するあまりに、音楽が停滞してしまうことも少なくないが、アンスネスの演奏は古典派の協奏曲のような軽やかさを含んでいて、音楽の自然な流れを損なわない。アンスネスのピアノは決して大きな音ではないものの、楽器が隅々まで鳴っているので、オーケストラの響きに埋もれてしまうことはなく、存在感を保ちながらもオーケストラと見事に一体化している。
N響の演奏もアンスネスの独奏に呼応した流麗なもので、ブラームスが若き日を回想しているかのようだ。第3楽章では、辻本玲のチェロの深いヴィヴラートが演奏にさらなる瑞々しさを与え、音楽からは青春の喜びすら感じられる。この段になって、私は指揮者の98歳という年齢を一旦忘れ、無心で目の前の演奏に耳を傾けることにした。私の頭の中にあった、高齢の指揮者の奏でる音楽に対するステレオタイプなイメージは、ブロムシュテットには全く当てはまらず、鑑賞の邪魔にしかならない。
ソリスト・アンコールでは、ショパンの《24の前奏曲》より第8番嬰ヘ短調が弾かれたが、これはブラームスの協奏曲と交響曲の間のグラニテのようなもので、耳の中ですぐに溶けて消えてしまった。どうせならブラームスの晩年のピアノ小品が聴きたかったが、ショパンの疾走する軽やかさがアンコールにはふさわしいだろうか。

写真提供:NHK交響楽団
後半の交響曲第3番は、一生にそう何度も聴けないような、とてつもない名演であった。ハンスリックはまさにこのような演奏を聴いて、音楽を「鳴り響きつつ動く形式」と定義したのだろう。ブロムシュテットは、自分が求める音を小さくも決然とした動きで明確に示すので、オーケストラの演奏には一切の迷いがなく、第1楽章冒頭のモットーから音楽は絶えず聴き手の身体の奥深くで鳴り響く。第2主題がクラリネットによって繰り返される際には音量に変化がつけられるが、ただ音を絞るだけでなく、空気の質までもが瞬時に切り替わるのは見事と言うほかない。展開部で聴かれたうねりは、まさに「鳴り響きつつ動く形式」というべきもので、ゲスト・コンサートマスターの川崎洋介はその中心に居て、オーケストラを全身で鼓舞している。前半の協奏曲から、今にも立ち上がりそうな川崎のリードが気になっていたが、そのアクションは一つひとつが実に音楽的で、どれだけ身体が動いていても鑑賞の妨げになるようなことは一切ない。それどころか、川崎の背中はオーケストラだけでなく我々聴き手をも導き、彼の動きを目で追っていると、自然と音楽の流れが理解できるのである。
第2楽章で、息の長いクラリネット・ソロをオーボエと弦楽器が引き継ぐと、オーケストラの広がりを持った響きがNHKホールを奈落から揺さぶる。オーケストラの愛好家のなかにはサントリーホールで行われるBプログラムを好む人も少なくないし、サントリーホールの響きはオーケストラの理想郷というべきものだが、N響のサウンドが育まれてきたこのホールで聴く彼らの演奏には、腰の座った重心の低さがあって、それが唯一無二の魅力となっているように思う。
第3楽章はこの交響曲でもっともよく知られた楽章だが、ブロムシュテットは旋律の感傷に溺れることなく音楽をさらりと前に進め、第4楽章へと至る交響的レトリックを大切にしていた。さりげなさを湛えた第3楽章が第4楽章への序章のような役割を果たすことで、フィナーレにおける血が噴き出るようなドラマはクライマックスとしてより大きな効果を発揮するのだ。良いコンサートのあとには、聴いた作品を思わず口ずさんでしまうものだが、ブロムシュテットとN響の演奏を聴いたあと、何日も何日も私はベビーカーを押しながらブラームスを歌い続けていた。

写真提供:NHK交響楽団
10月に聴いたブロムシュテットとN響による演奏は、オーケストラ芸術の真髄に触れるような体験で、このような演奏のためにこそN響は存在していると思わせる、圧倒的な説得力を持っていた。N響が創設100周年を迎える2026年にも、ブロムシュテットは再び指揮台に招かれ、ブラームスとブルックナーを演奏する予定である。N響より1歳年下のブロムシュテットはそのとき99歳を迎えるが、おそらく彼の音楽はさらに若々しくなり、私たちを再び熱狂させてくれるだろう。ブロムシュテットの健康を祈りつつ、その日が来るのを指折り待つことにしたい。

写真提供:NHK交響楽団
NHK交響楽団 第2046回定期公演 Aプログラム