<Artist Interview>
馬場武蔵
現代音楽の空白を埋める仕事人【前編】
text by 小島広之
photo by Azumax
馬場武蔵は、大学在籍時からベルリンを拠点に、はじめはトロンボニストとして、今では指揮者として活躍している。欧州随一の現代音楽演奏集団であるアンサンブル・モデルンのアカデミー生として学び、様々なオーケストラ、音楽祭で指揮を務めている。ハンス・アイスラー・フォーラム現代音楽賞をはじめ受賞歴も豊富だ。そのレパートリーの中核をなすのは現代音楽であると言ってよいだろう。
私が馬場武蔵という指揮者を知ったきっかけは、2018年にトーキョーアーツアンドスペースで上演された『米田恵子(1912-1992)の作品と生涯について』である。それ以来、日本の現代音楽シーンを追う中で、幾度も彼の名前を見るようになった。最近では『サントリーホール サマーフェスティバル 2023』でオルガ・ノイヴィルトの作品を見事にまとめ上げたことが印象的だった。当初、馬場の出演は告知されていなかった。おそらく後になって、このような難曲を演奏するには、彼の指揮者としての力が必要だという判断があったのだろう。
馬場は、いまや日本の現代音楽界にとって欠かせない人物である。2022年からはアンサンブル・トーンシークの指揮者として、類い稀な充実した音楽を提供してくれている。与えられた仕事を熱心にこなす仕事人でありながら、自らの活動の領野をしっかりと拡大している。
彼の思想、音楽観、生きた声を記録することは、日本の音楽シーンの急務であると考え、インタビューを打診した。
成長痛のような現代音楽体験
――馬場さんを「現代音楽の指揮者」と捉えてもよろしいでしょうか。
そもそも現代音楽の指揮者って何でしょうね。きっと自分で名乗るというよりは、ほかの人が判断するものだと思います。例えばニコラウス・アーノンクールは古楽の指揮者だと言われるのをすごく嫌ったという逸話もあります。ただ同世代の人たちより同時代の音楽を振っている分量は多いと思います。やっぱり現代音楽だと、どうしても振るための知識が必要だったりします。あまり現代音楽を振った経験のない人に「はい」って楽譜を渡して、できるようなものではありません。例えば、僕は今この瞬間に「《マタイ受難曲》を振ってね」と言われても、たぶん断る勇気はないんですよね。でも、バロック音楽をすごく専門的に勉強されている方からしたら、僕の知識はかなり足りないわけです。一方で僕は、現代音楽の演奏に必要な知識や能力を身につけ、プラクティカルに言うなら変拍子や特殊奏法、音列とか微分音とか、そういったことについては取り組んだことがある。それぐらいのことなんでしょうね。
――トロンボーン奏者としてキャリアを始められました。レパートリーはどのようなものでしたか。
元々トロンボーンは部活のジャズバンドで始めたんですけど、高校生ぐらいのときに、自分がやりたいのはオーケストラ音楽だなと思うようになりました。なので、僕のレパートリーはいわゆるトロンボーン科の音大生が勉強する、ほとんどの場合はオーケストラのオーディションに合格するための課題曲、オーケストラ・スタディであったり、フェルディナンド・ダヴィッドの《トロンボーン協奏曲》であったり……。でも、けっこう早い段階から20世紀ものを読むことは多くて、例えば大学生のうちにルチアーノ・ベリオの《セクエンツァ》を吹きました。
――日本の音楽大学の中で、どのように《セクエンツァ》のような現代音楽と出会いましたか。
仲の良い友達が受けるからといった理由で作曲家の石島正博先生が担当されている講義を受講しました。演奏科の学生のための現代音楽実習みたいな授業で、学期の終わりにひとつ作品を選んで小論文を書く機会があって、良い作品を探すうちにベリオの《セクエンツァ》に行き着きました。
また現代音楽を広く捉えると、中学生、高校生のときからフリージャズを聴いていましたね。ジョン・コルトレーンの最晩年とかがすごく好きだった。あと僕がめちゃめちゃ聴いていたのは、やっぱりワーグナーのオペラです。それも言ってみれば難解な音楽ですね。難解な音楽とか、難解な文学とかを読むのがけっこう好きなんですね。ショーペンハウアーとかも読んでいたし。だから大学に入ってからそういう音楽があることを授業で紹介されたときも、すっと入ってくる感じがありました。
大学2年生の9月に中村功さんとカヤ・ハーンさんのデュオ・コンフリクトが大学に来て、ヨンギー・パクパーンの作品を演奏する機会がありました。それに僕はやられちゃって。これが「ザ・現代音楽」に触れた最初の体験ですね。あと『ヴィオラスペース』で学生オケがコンチェルトの伴奏をする機会があって、そこでノイヴィルトの《ヴィオラ協奏曲》をやりました。ペーテル・エトヴェシュとクリストフ・エーレンフェルナーの作品もあり、最初はノイヴィルト作品が「ちょっと不快」だなと思ったんですよ。けれど次第に「新しいものを勉強している」という感覚を得るようになりました。成長痛のようですね。
けれど、ベルリンに行ってみると、普通に音大生をやっていても現代音楽アンサンブルに乗ることになるので、現代音楽がもっと身近なものなんだなっていうのはけっこう驚きましたね。僕が行ったハンス・アイスラー音楽大学では、学生オケの乗り番が決められるように、現代音楽アンサンブルの乗り番が決められていたので。
音楽史が続いていないこの感じを埋める
――ベルリンで演奏されるレパートリーは、日本とは違いましたか。
全然違いますね。日本だと、現代音楽のレパートリーは基本的に友達の作曲家が書いた曲なんですよね。そして、それしかやってこなかった人でさえ、「現代音楽をいっぱいやる人」に数えられます。ほかにはせいぜいコンクールの2次予選のために委嘱の新作を演奏するくらいでしょうか。一方、ハンス・アイスラーで学生をやっていると、アントン・ウェーベルンやベリオ、ジェルジ・リゲティ、ピエール・ブーレーズの作品を演奏する機会が日常的にあるんですよ。いわゆる古典現代音楽です。ベルリンではリゲティの《ヴァイオリン協奏曲》を初演したサシュコ・ガヴリーロフと共演したりもしました。こういう機会に恵まれているのは、やはり日本とはちょっと違うでしょう。
――そもそも機会の量と質、そして考え方に差があると。
ヨーロッパにも「わからないものは害かも知れない」という考えはあります。最近ノイヴィルトと話す機会がありましたが、ウィーンの彼女の周りの学生は、「現代音楽科と関わるな」と言われているそうです。それが現実です。日本でもぶっちゃけそうです。もちろん声楽科だったら声を傷つけるかもしれないとか、器楽科なら楽器を痛めるかもしれないとかそういう実際的な理由もあります。
例えば日本のSNSを見ていると、プロオケの団員が「今週は現代音楽のプロジェクト」と投稿しています。「誰の?」となるわけです。「今週はドイツ・ロマン派」とは言わないですよね。現代音楽っていうのは、芥川也寸志サントリー作曲賞の最新の作品なのか、三善晃なのか湯浅譲二なのかで全然違う話だっていうことを演奏家が区別してないというのは深刻だと思います。「今週はブラームス」と言うように、「今週はブーレーズ」と作曲家の名前が出てこないようでは。言葉の端々に世の中の認識が表れていると思います。
――次の世代には事情は変わると思いますか。
僕はわりと悲観的です。というか、僕は「やりたい人がやればよい」と思っています。やっぱり先生から生徒への繋がりは脈々とあり、脈々と伝えられたものは全然変わらないのです。僕自身について言えば、最終的にどんなジャンルの音楽をやっているかは、どうでもよいと思っています。基本的に、僕は人と一緒に何かを作っているのが好きなだけです。だから子供のときから吹奏楽やジャズをやって、ゴスペルを歌っていたときもあるし、ドラムを叩いていたときもあるし、ベルリン時代は演劇みたいなこともしました。
しかし、現代音楽の領域でこそできると考えていることもあります。僕が指揮をしているアンサンブル・トーンシークでシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》をやったとき、聴きに来てくれた演奏家からは「《ピエロ》のような“進んだ音楽”をやるなんてすごいね」と言われ、他方で作曲家からは「《ピエロ》のようなやり尽くされた音楽をやってもしょうがない」と言われました。完全に分断しているなと、それはそれは愕然としました。日本で「現代音楽をやります」という人は、一線で活躍されているプロでも学生でも、最新の音楽を演奏することが多いです。その結果、「通常」のレパートリーと最新の音楽の間の70年ほどに書かれた音楽があまり演奏されていないという実態があります。古典現代音楽を演奏することで、音楽史が続いていないこの感じを埋めることを自分のミッションにしたいとはちょっと思っています。たぶんやる人はいないんで。
今、邦人作品を在京オケでいっぱいやりましょうという気運が高まっているじゃないですか。素晴らしいことだと思うんですよ。しかし、その時代にヨーロッパやアメリカでは何が起きていたかということも、やっぱり見た方がよいですよね。ジョナサン・ノットと東京交響楽団のように空白の時代の作品を積極的に取り上げないと、ここの繋がりは生まれないのではないでしょうか。ブルックナーの交響曲第1番をリゲティの《ハンガリアン・ロック》やベリオの《声(フォーク・ソングII)》と並べて演奏した2023年10月の公演は、このコンビの見事なプログラミングの一例です。
聴衆を馬鹿にしない演奏会をやりたい
――未来の聴衆を獲得するためには、どのようにすると効果的だと考えますか。
子供のためのコンサートをより良いものにすることはできると思いますし、子供のためのイベントこそ、本気のプログラムを打ち出さなきゃいけないと考えています。子供は子供扱いされていることを一瞬で見抜くので、子供向けプログラムをやられた瞬間に興味を失います。バイエルン放送交響楽団が子供のためのコンサートを朝10時から開催したときに、マリス・ヤンソンスはリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》をオリジナルのままぶつけましたけど、それこそが早期教育というものだと思います。僕も聴衆を馬鹿にしない演奏会をやりたいとすごく思ってます。「こんなプログラムでは、お客さんは来ないだろうね」っていうことこそやらなければいけないんです。
――「現代音楽」に興味がない聴衆も多いかと思いますが、いかにして門戸を開くことができるでしょうか。
新しいのものと古いのものを一緒の演奏会で並べなきゃいけないんです。組み合わせが正しいかどうかはわからないですが、例えばブラームスを聴きたいお客さんには武満徹がセットでついてくるよ、その逆も然りっていうことをやらなきゃいけない。すごく面白いと思うのは、ブーレーズとアーノンクールというすごく離れているように見えるふたりの指揮者が、違う文脈で同じことを言っているんですよね。「最新の音楽と、古い音楽を同じコンサートでやらなきゃいけない」と。
例えば先日の『サントリーホール サマーフェスティバル』(2023年8月23-28日開催)の本当に素晴らしいところは、ノイヴィルトとスクリャービンを一緒に並べているところです。ベルリン・フィルがマーラーのツィクルスをやるとき、前半のプログラムがヘルムート・ラッヘンマンだったりするのはやっぱりすごいことだと思うんですよ。ただし、日本の大きな現代音楽のコンサートで「最新の音楽」と銘打たれ、東京でも年に1度しか聴けない作品は、ドイツのオーケストラの定期公演では普段から演奏されているようなレパートリーです。良いか悪いかはさておき、それぐらいの開きがあることを事実として認めなきゃいけないっていうのはあると思います。
前編では、現代音楽との出会いや日独での位置付けの違い、そして現代音楽の普及について話を聞いた。馬場は現代音楽の将来について、熱を帯びながらもドライに語ってくれた。ひとつ質問を投げかければ、自身の思考を一瞬でまとめ上げ、それを澱むことなく伝える様子が印象的だった。なるほど指揮者の仕事でもこの力が活きているのだろう。
後編では、アンサンブル・トーンシークをはじめとする今後の活動、そして馬場の指揮観に迫る。
後編へつづく
馬場武蔵 Musashi Baba
神奈川県出身。ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学(トロンボーン)、フランクフルト音楽舞台芸術大学(指揮)卒。2018/2019年アンサンブル・モデルン・アカデミー生。
マヌエル・ナウリ、ジョルト・ナジ、ルーカス・フィス、ヴァシリス・クリストプーロスに師事。
ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー、ベルリン・ドイツ・オペラ、ギリシャ国立歌劇場、新国立劇場ほかで副指揮者を務める。アシスタントとして薫陶を受けた指揮者にサー・ジョージ・ベンジャミン、ディーマ・スロボデニューク、アレホ・ペレス、ジェームズ・ジャッドなど。
ヴィッテン、ガウデアムス、クラングシュプーレンほか欧州の現代音楽祭に出演。これまでに指揮したオーケストラ、アンサンブルにノイブランデンブルグ・フィルハーモニー、ブレーマーハーフェン・フィルハーモニー管弦楽団、アテネ国立管弦楽団、アンサンブル・モデルンほか。2022年よりアンサンブル・トーンシーク指揮者。執筆者:小島広之
東京大学大学院博士後期課程在籍。音楽美学、音楽批評研究。20世紀前半を代表するドイツの音楽批評家パウル・ベッカーの言説を繙くことで、現代音楽黎明期における「新しさ」理念を分析している。音楽研究と並行して、最新の現代音楽における「作曲行為」に触れるウェブメディア「スタイル&アイデア:作曲考」を運営(https://styleandidea.com)、批評活動を行っている(第9回柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞)。
Xアカウント:https://twitter.com/Kojimah※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。