指揮者ってなんだろう?
Vol.1『若手指揮者と特別編成オーケストラが奏でる
トライアウト・コンサート2021』から見えるもの

指揮者ってなんだろう?

Vol.1『若手指揮者と特別編成オーケストラが奏でる
トライアウト・コンサート2021』から見えるもの

text by 八木宏之
cover photo ©有田周平

「指揮者って偉いの?」「指揮者って一体なにをしているの?」友人からそんな質問を受けることがある。クラシック音楽に普段馴染みのない人にとって、オーケストラの指揮者というのは謎が多い存在かもしれない。

ときには100人を越える演奏家の前に立って、タクトを振り下ろす。なんとなく拍を取っていることはわかるけれど、どうやらそれだけではなさそうだ。表情と身体の動きで、オーケストラに様々なことを訴えかけている。聴衆からひときわ大きな拍手が贈られる指揮者だが、コンサートの始めから終わりまで、一音たりとも発することはない。指揮者は実際のところ、なにをしているのだろうか。クラシック音楽の愛好家たちは、同じ作品を異なる指揮者の演奏で聴き比べたり、まるでワインのソムリエやコーヒーのバリスタのように、その細かな違いを聴きわけたりするらしい。同じ楽譜を演奏しているのに、指揮者によってそんなにも違いは生じるのだろうか

指揮者は、クラシック音楽のもっとも重要な要素のひとつでありながら、その存在意義はなかなかわかりづらいのではないだろうか。FREUDEではより多くの人にクラシック音楽の楽しみ方をお伝えするために、「指揮者ってなんだろう?」という問いを定期的に取り上げて、その秘密を丁寧に解き明かしていきたいと思う。

開かれたリハーサル

「指揮者とはなにか?」というテーマに迫るうえで、大変興味深いイベントが、7月5日、東京、小金井の宮地楽器ホールで行われた。『若手指揮者と特別編成オーケストラが奏でる トライアウト・コンサート 2021』と題されたこのイベントは、音楽大学を卒業後、さらなる研鑽を積む若手指揮者たちに、プロフェッショナルのオーケストラを指揮する機会を提供しようというものである。

©有田周平

この企画の出発点となったのは、2020年8月に三鷹市芸術文化センターで行われた『若手指揮者のための試演会』である。コロナ禍によって、指揮者として必要不可欠な、オーケストラを前にした勉強のチャンスを失ってしまった若者たちに、なんとかその機会を提供しようと、藝大フィルハーモニア管弦楽団のファゴット奏者、依田晃宣の呼びかけで首都圏のプロ・オーケストラのプレイヤーたちが集結。3人の若手指揮者とのリハーサルと演奏映像収録に臨んだ。

その経験を踏まえて、約1年後の2021年7月5日、今度は観客を入れて『トライアウト・コンサート』というかたちで開催することになった。これまでも、音楽大学の指揮科の講義や、著名指揮者によるマスタークラスなどはあったが、オーケストラ・プレイヤーたちが主体となって、講師などは置かずに、オーケストラのなかから指揮者を育てていこうという試みは新しい。

どうしてこのイベントが指揮者の秘密に迫るうえで興味深いのだろうか? その理由は、指揮者とオーケストラのリハーサルから、ゲネプロ(本番直前に行われる最終リハーサル、総練習を表すドイツ語のゲネラルプローベの略)、本番に至るまでのプロセスすべてが公開されている点にある。しかも同じオーケストラを前にした、4人の異なる指揮者のリハーサルをじっくりと観察することができる。これまでもオーケストラの「公開リハーサル」というものはしばしば行われてきた。しかしそうした「公開リハーサル」は、リハーサルを重ねた後の、最終仕上げを見せることがほとんどである。それに対して『トライアウト・コンサート』では、指揮者とオーケストラがゼロから音楽を作り上げていく、そのプロセスの全てを公開しているのだ

©有田周平

若き指揮者たちの奮闘

この『トライアウト・コンサート』が聴き手にとって興味深いもうひとつの理由は、指揮者よりもオーケストラの方に豊富な経験があるという関係性である。この公演の特別編成オーケストラは、首都圏を中心に、全国のプロ・オーケストラのプレイヤーたちによって構成されており、名手揃いの集団である。コンサートマスターは水谷晃(東京交響楽団コンサートマスター)と矢部達哉(東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター)が2曲ずつの交代で務めた。オーケストラには2人の名コンサートマスターのほかにも、須田祥子(東京フィルハーモニー交響楽団首席ヴィオラ奏者)、山本裕康(京都市交響楽団特別首席チェロ奏者)、荒川文吉(東京フィルハーモニー交響楽団首席オーボエ奏者)、川瀬達也(新日本フィルハーモニー交響楽団首席ティンパニ奏者)など、ここでは紹介しきれないほどたくさんのトップ・プレイヤーが参加している。

©有田周平

対して指揮台に登る4人は、プロのオーケストラとの共演歴が少なく、リハーサルの経験も多くはない若手である。指揮者とは何者で、どんなことをする職業で、リハーサルではどのようなことが行われ、どのようにしてオーケストラの演奏が作り上げられていくのか。そして指揮者による演奏の違いとはどのようにして生み出され得るのか。自らの流儀がまだ確立されていない若手指揮者と、豊富な経験を誇る熟練したオーケストラのリハーサルほど、それらを浮き彫りにする機会はないであろう。

今回登場した指揮者は、榊真由、中城良、鏑木蓉馬、山上孝秋の4名。リハーサルの持ち時間はひとり1時間で、モーツァルトもしくはベートーヴェンの交響曲の第1楽章から、各々選択したものを演奏した。

最初に登場した榊真由が指揮したのはベートーヴェンの交響曲第2番。NHK交響楽団のアシスタントとして国内外の名指揮者の仕事を間近に見てきた榊は、リハーサルを手際よく、スムーズに進めていく。ベートーヴェンの力強いエネルギーとユーモアが共存する交響曲第2番の多面性を、しっかりと浮かび上がらせる、丁寧な音楽作りが光った。

榊真由 ©有田周平

2人目の中城良はベートーヴェンの交響曲第5番を選んだ。ベートーヴェンのみならず、クラシック音楽の代名詞であり、指揮者として決して避けては通れないのが交響曲第5番である。この作品を数え切れないほど演奏してきた音楽家たちを前に、自分のオリジナリティを発揮して、借り物ではない音楽を作り上げていくのは並大抵の仕事ではない。中城はときおり緊張を見せながらも、その難しい仕事をやりきった。

中城良 ©有田周平

3人目の鏑木蓉馬が選んだのはモーツァルトの交響曲第38番《プラハ》である。鏑木はリハーサルの冒頭、作品に対する自らの想いや具体的なイメージをオーケストラに語りかけた。演奏の細かなアイデアにも積極的にトライしていき、より良い演奏のためには失敗も恐れないその姿勢には好感が持てる。作品への愛情も言葉のひとつひとつに滲み出ている。

鏑木蓉馬 ©有田周平

最後に登場した山上孝秋の持ち味はそのダイナミックな指揮である。彼がどんな音楽を響かせたいのかは、そのアクションから客席にもはっきりと伝わってくる。ベートーヴェンの交響曲第7番は、テンポやアーティキュレーションなど、指揮者が細かな判断をしなければならない要素が数多くある作品だが、山上は常に明快で、迷いがなく、その自信が音楽のエネルギーへと変換されていくのがよくわかる。

山上孝秋 ©有田周平

指揮者とオーケストラ その関係性の本質

4人の指揮者は、全員がスコアを隅々まで深く読み込み、バトンテクニックもしっかりと勉強してきている俊英たちだ。作品に対する自身の考えがはっきりとあり、演奏で実現したいアイデアも豊富に持っている。しかし、それらをオーケストラに正確に、説得力をもって伝えることは、本当に難しいことなのだと、『トライアウト・コンサート』のリハーサルを通して改めて感じた。プロのオーケストラのメンバーは、ひとりひとりが厳しいオーディションを勝ち抜いてきた名手であり、楽器のことは誰よりも知り尽くしている。そして、自分のパートだけでなく、スコアも指揮者と同じように勉強して、作品全体を頭に入れ、自身の作品に対するイメージやアイデアを持ってリハーサルに臨んでいる。決して受け身の存在ではなく、極めて能動的に作品と向き合ったうえで、指揮者の音楽的提案を待っているのだ。そんな彼らを納得させるのは、簡単なことではない。4人の指揮者たちの指示に矛盾点があれば、オーケストラからは鋭い指摘が飛ぶ。反対にアイデアが不明瞭なまま音楽が進めば、オーケストラからは即座に質問が出る。このプロセスこそが指揮者とオーケストラの関係性の本質であり、これを繰り返しながら、指揮者は成長していくのだ。この繰り返しなしに指揮者が大成することはできず、これは指揮者として生きる限り続いていく。

©有田周平

また限られたリハーサル時間のなかでいかに自分の音楽を実現するのか、ということも指揮者にとって重要な要素だ。プロのオーケストラのリハーサルは、原則として1分の延長も許されない。これが長時間の練習が可能なアマチュア・オーケストラを指揮する場合との、大きな違いのひとつである。だからこそ、指揮者はリハーサルの流れや段取りを事前にシミュレーションして、効率よく、自分のビジョンをオーケストラに伝えていかなくてはならない。リハーサルのなかでどんなことを話すのか、どの部分を繰り返し練習するのか。その話や繰り返し練習は、意味のあるものなのか。指揮者がどんな準備をしてきたのかは、リハーサルで全て明らかになる。同時に、オーケストラを引っ張っていくリーダーシップやカリスマ、人を惹きつける魅力やユーモアも、演奏に少なからず影響する。もちろんリハーサルはシミュレーション通りに進むとは限らない。音楽は生きたものであり、柔軟さや臨機応変さも求められる。オーケストラは指揮者の一挙手一投足をじっと見ている。わずかな変化や、小さな所作も見逃さない。

©有田周平

企画発起人のひとりであるコンサートマスターの水谷晃に、『トライアウト・コンサート』の狙いについて聞いてみると、次のような答えが返ってきた。

「この企画は指揮者のマスタークラスではないし、指揮のテクニックを教えるためのレッスンでもありません。指揮者というのはとても難しい職業です。オーケストラと一緒に自分の音楽を実現していくにはこうしたら良い、反対にこうしたら上手くいかない、といったことを現場の経験のなかで学ばなければなりません。しかし若い指揮者がそうした機会を得ることは簡単ではなく、このコロナ禍によってさらにそのチャンスは減っています。私たちは若い指揮者たちに、上からなにかを教えるのではなく、彼らの音楽、彼らのアイデアを実現するためのアドバイスを伝えたいと思っています。普段のリハーサルは、指揮者のイメージやアイデアを自分たちに馴染ませていくプロセスですが、今回はそれらを若い指揮者たちから引き出して、こういう方法もあるんじゃないかな?という提案をしていきます。この経験を次に繋げて、4人の指揮者たちが日本のオーケストラ界に光をもたらして欲しいと願っています」(水谷晃)

水谷の言葉の通り、『トライアウト・コンサート』はプロのオーケストラで活躍する音楽家たちから若い指揮者たちへのエールである。そしてオーケストラ・プレイヤーの立場から、コロナ禍に苦しむクラシック音楽界になんとか希望の光をもたらそうとする模索でもある。

次回の開催日時は未定だが、今後も年に一度の継続的な開催を目指すとのこと。「指揮者ってなんだろう?」と疑問に思っている人や、指揮者の役割や指揮者による演奏の違いなどを深く知りたいと思っている人は、ぜひ次回の『トライアウト・コンサート』に出かけてみてほしい。普段は秘密のヴェールに包まれた指揮者とオーケストラの関係性や真剣なやりとりが、これまでの疑問への答えとなってくれるはずだ。

【トライアウト・コンサート実行委員会 webサイト】
https://www.sites.google.com/view/tryout-concert/

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