拝啓、バベルの塔へ

拝啓、バベルの塔へ

text by 加藤綾子

ダネル弦楽四重奏団のヴァイオリニスト、マルク・ダネルさんに師事した加藤綾子さんが、2024年6月10日の『サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン』での公演を聴き、ベルギー留学時代を振り返りながらエッセイを綴ってくださいました。

ちゃんと演奏を聴いて、手帳にあれこれメモしておくべきなのに、2024年6月の私ときたら、ホールの豪奢さにすっかり身を縮こめて、からっからの喉を何度も飲み下している。落ち着かない。帰りたい。自分の恩師を目の前にするのが、どうしてもどうしても、恥ずかしくてたまらない。毎度のことである。お世話になった人と何年かぶりに対面するとき、私はいたたまれなくて、情けなくて、全身が固まっちゃうのである。そのくせ頭の中ばかり、ぐるぐる勝手に回り始める。ほら、今だって、──ファースト・ヴァイオリンが右手を振りかぶり、強烈な下げ弓をE線に当てた途端、3年前のナミュールに意識が飛んでいる。

せでじゃぱまる。

小学校みたいな校舎だった。古い修道院か何かを改装したらしい音楽院、妙に安っぽい緑色の廊下とか、こじんまりとした中庭とか、奇妙にモダンなデザインが浮いている校名のロゴとか、バターとチョコレートと小麦粉が200%ずつ詰まってそうなビスケットを頬張りながら「せでじゃぱまる」を連呼する先生のことばかり覚えている。マスクをつけても、いつの間にか耳からぶら下がっちゃうような人だった。コロナ禍中、室内では一定の距離を保たなくてはいけなかったころ、突然電話がかかってきて、呼び出されるまま校舎に赴くと、先生は、中庭で“適切な距離”を保ちながらレッスンしてくれた。庭に仁王立ちする先生の写真は、今でもクラウドに保管している。バックアップだって取ってある。

あれから3年経って、サントリーホールで目にするダネル先生は、あんまり変わっていなかった。

身体が、とにかく大きい人である。フルサイズのヴァイオリンが子供用のそれに見える。ボウイングがめちゃくちゃ速い。弓元から弓先まで一瞬で行き来する。ダネル先生の弓は5cmくらいの長さなのかもしれない。ヴィブラートは、必要な瞬間だけ素早く、太い指をひと振り。プロコフィエフのユニゾンが、恐ろしいほど空虚に鳴る。

2024年6月10日 サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン『カルテット with… Ⅱ』 
ダネル弦楽四重奏団

26歳の春につたない英語のメールを送るまで、ダネル先生とは、いっさい面識がなかった。志望する音楽院のWEBサイトにアクセスし、弦楽器科に連なる教授たちの名前を片っ端からYouTubeの検索にかけて、あとは直感に頼った。「この人の演奏がいい」と思った先生に、次々コンタクトした。私は来年、リヨン国立を受けようと思っている日本人です。この5月、2週間ほどフランスに滞在する予定です。滞在中、いちどレッスンを見てもらえませんか──

意外にも、複数の先生たちから返信があった。スケジュールをすり合わせていき、結局、現地のレッスンまで辿り着けたのは、ダネル先生ひとりだった。幸運なことに、「この人の演奏がいい」と、もっとも強く感じた人でもあった。

モニター越しに初めて見たダネル先生も、やはり、カルテットのファースト・ヴァイオリンの席に座っていた。踊るように演奏する人だった。今もそう──ヴァインベルクの高音域、たぶんダイナミクス表記はピアノかメゾピアノ、ボウイングとヴィブラートの細やかなコントロールが求められるだろうメロディを歌いながら、長い足が浮く。半ばのけぞったまま、ハイポジションの指先をなめらかに移し替えていく。

カルテットの音は、どこまでも澄んで鋭いままである。ファースト・ヴァイオリンに対して、見た目こそ穏やかに見える内声ふたりの推進力が、凄まじい。これまた高音のチェロ独奏を目の当たりにして、私の脳みそは懲りずに、3年前のナミュールの音楽室から、ダネル先生のことばを引っ張ってくる──せでじゃぱまる。せでじゃぱまる。

思い出すべきことも、先生から学んだことも、他にいくらだってあるだろうに、いつだって思い出すのは、あのちいさなレッスン室だ。今日のレッスン室がどこか、なかなか教えてくれない先生。「ヴァイオリンが聞こえてくるからわかるはずだよ」と言うのだけど、門下生たちのメッセンジャー・グループでは「先生、今日のレッスン室はどこなの?」という疑問が飛び交っていた。グループの名前は『La tour de Babel』──バベルの塔。日本、タイ、フランス、ベルギー、チリ、トルクメニスタン、いろんな国から来て、いろんなことばを話す人たちがいた。塔の主たるダネル先生は、少なくともフランス語と英語とロシア語を流暢に話した。今こうして、プロコフィエフとヴァインベルクとショスタコーヴィチのことばを、自在に使い分けるように。

「ショスタコーヴィチがベートーヴェンなら、ヴァインベルクはシューベルトなんだよ」

あるレッスンのとき、日本には帰りたくないんです、と泣いていた私を、ダネル先生はたぶん、けっこう心配していた。申し訳ないと思う。なんだかんだ、いま、私は日本で元気に生きているし、こうして再び、あなたの演奏を聴くことができている。小さく身を縮こませて、のうのうと日本で過ごしながら、それでも、あなたの演奏を真正面から見つめて、あなたの音楽を一生懸命、落ち着かない脳裏に刻んでいる。

せでじゃぱまる。せでじゃぱまる。 C’est déjà pas mal. 「悪くない」と直訳したくなることばを、フランス語圏の彼らは、むしろポジティブな褒め言葉、あるいは励ましとして口にする。──「とてもいいよ」。

2024年6月10日 サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン『カルテット with… Ⅱ』  ダネル弦楽四重奏団

執筆者:加藤綾子
ヴァイオリニスト。ベルギー・ナミュールの音楽院「IMEP」修士演奏家課程を、学年最高得点にて修了。これまでの主な作品に、「形式を呼吸する」(2024)「ヴァイオリニストによる(メタ)フィクション」(2025/豊岡演劇祭フリンジ・ショーケース参加作品)「アイム・ミート!」(2025/金沢21世紀美術館 芸術交流共催事業「&21+」)など。令和7年度舞台芸術専門家派遣事業バンコク派遣アーティスト。
https://ayako-kato.com/

※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。

 

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